虎ヶ池の築造

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森屋村において取水された畑田井路の水は、上流の村から利用しており、下流の村ほど水不足は免れなかった。そのため、村々は溜池を築いて、水不足に備えなければならなかった。たとえば、寺田村は寛永元年(一六二四)に白木村地内に溜池を築き、また、山城村と一須賀村は共同して寛永三年に西池(古池)、寛文年間前後に東池(今池)を築いている。さらに、白木村でも寛文三年(一六六三)と一二年に溜池を築造している(築造年代は『大阪府の地名Ⅱ』(『日本歴史地名大系』二八、平凡社)による)。

 こうした動きから少し遅れて、北別井・南別井・山城の三カ村は、元禄元年(一六八八)に南別井村地内において新池の築造を計画し、工事に着手した。ところが、別井村の少し上手の掻き分けという地点において畑田井路から分水している寺田村が計画に強く反対し、出入りとなった。元禄二年から三年にかけて、京都町奉行所において裁判が続けられたが、双方の言い分は真っ向から対立していた。まず、寺田村は次のように主張した。寺田村の村高五〇〇石のうち四三〇石余りは畑田井路の水により養っている、井路の末にあり毎年渇水になるが、白木村地内にある溜池に水を溜め込み、用水の便りにしている、三カ村が新池の準備を始め、寺田村に了解を求めてきたが認めなかった、三カ村の領主である山城国淀藩主の石川主殿頭の役人へ訴えたり、江戸まで赴いて領主の大久保右近へ訴えた、この留守中に三カ村は新池の工事に着手した。

 これに対して三カ村は次のように反論している。新池は、三カ村の田地のうち、畑田井路の水を利用する八〇〇石余りの田地が年々日損するので計画した、この池には余り水を入れるので寺田村に支障はない、白木村が先年新池を築いたときには寺田村は反対しなかったし、三カ村も寺田村が池を築いたときには反対しなかった、三カ村は八〇〇石のうち二七〇石余りは年々日損し、年貢は検見により控除してもらっているが、寺田村は溜池ができたので日損はなく、年貢は年々定額にしてもらう定免を願っている。

 その後、京都町奉行所における裁判がどのような経過をたどったのか明らかでないが、仲介者を交えて双方の交渉が続けられたと思われる。そして最後には、大坂谷町二丁目の虎屋七兵衛という商人が挨拶人となり、元禄一一年に和談が成立した。江戸時代の大坂には、大名や旗本の御用を勤める商人が多くおり、虎屋七兵衛は石川、大久保双方の御用達を兼ねていた。三カ村は彼の功績に報いるために、池の名を虎ヶ池と命名したといわれている(野村豊『水利』)。この池は、現在では「寅ヶ池」と表記されている。

写真172 寅ヶ池

 畑田三郷にとって、もう一つ畑田井路の利用に関して頭を悩ませる問題があった。それは、上流の森屋村や寛弘寺村において井路に水車を設置して、米搗き稼ぎをしていたことである。水車の利用は一八世紀中期の延享年間に森屋村の村民が開始したことが史料によって確認でき、その後、宝暦年間には四輛の水車が利用されていた。こうした水車の設置にあたっては下流の畑田三郷との間に取り決めを交わしていたが、三郷は水の利用に支障があるとして、繰り返し約束違反や水車の撤去を訴えていた(野村豊『水利』、『河内石川村學術調査報告』)。