彼方と西板持

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次に、石川の右岸に位置する村の水利について見ることにしよう。まず、最も上流にある嬉・横山・伏見堂村は石川の水を利用しており、村の東部にあたる丘陵地には溜池があった。江戸時代の村勢を記した村明細帳を参考にして、三カ村の水利を概観しておこう。これらの村は村内において石川から取水できないため、上流の三日市村内に立合の井堰を設け、牧井路を経由して水を導いており、その途中の三カ所に筧を設け、このうち二つは長野村にあった。三日市村と長野村は現在の河内長野市に属している。また、嬉村には大門池、新池、葭池の三つの溜池があり、同村の反別約一五町歩のうち一町九反ほどを養っていた(近世Ⅷの二)。伏見堂村には二つの溜池があった(『富田林市史研究紀要』四)。

 これら三カ村の下流には、彼方村と西板持村がある。村明細帳と水利絵図によると、彼方村地内には石川から取水するため上手から、板持村と立合の一ノ井、川角、板持村の取水口である欠田の三つの井堰が設けられていた。また、大小一六の溜池があった(『富田林市史研究紀要』四、彼方中野家文書)。そして、彼方と西板持の井堰の近くには、石川の左岸に位置する村々の取水口として、深溝井堰が設置されており、両岸の村が石川水の利用をめぐって水争いを展開することもあった(後述)。

 彼方村と西板持村の水利に関しては、近世前期に発生した二つの水論の記録が残されている。まず、彼方村の作成した元和八年(一六二二)の願書によると、この年の水論は次のような経過をたどった(彼方中野家文書「乍恐申上候事」)。当時、彼方村には二名の領主がおり、その一名は幕府であり、甲斐庄喜右衛門が代官を勤め、もう一名は北条美濃守であった。西板持村の領主は小出大隅守であった。彼方村の記録によると、同村の土井之内という場所の田地四反五畝へ水を入れるときは、前々から掻き水をしてきたが、今年は、板持村が水の掻き口を切り破り、小がい桶を取ってしまったので、田地が不作となったことが争いの原因とされている。また、彼方村は、この田地については過去にも水論があり、二〇年ほど前の慶長九年(一六〇四)には片桐市正から、前々のとおり掻き水をしてもよいとの定めがあり、片桐の家臣林又右衛門と舟橋源左衛門から書き物をもらっている、とも述べている。

 さて元和八年、彼方村は江戸の小出大隅守や小堀遠江守に事情を訴えているが、水論の結末は明らかではない。この年の願書に名前の記された片桐市正は慶長二〇年に豊臣氏が滅亡するまで、河内国の地方支配の支柱として活躍していた。また、小堀遠江守は元和年間から寛永年間にかけて幕府の上方地方支配が整備される時期に、河内国の地方行政を担当していた。この二人の名前は、畑田三郷の水利に関する史料にも登場しており、後に述べる慶長年間の豊臣代官伊藤左馬頭とともに、彼らの手になる水論の裁定は、後々まで地元の人々によって重視された。

 その後、元和八年の水論から四半世紀ほど経過した承応年間にも、彼方村と西板持村の間に水論があった。今回の争点は、川角井堰と一ノ井堰の用水であり、近隣の村から噯(あつかい)人が入り、解決した。承応四年(一六五五)四月の証文(彼方中野家文書)によると、両村は渇水の時は「番水」により水を分けるように定めており、①最初の三日三夜は、朝の日の出より暮六ツまでは板持村、暮六ツより明朝の日の出までは彼方村が番水を取り、②四日目は、朝の日の出より夜半までは板持村、夜半より明朝の日の出までは彼方村が番水を取ることに決められた。この定めによると、番水の最初の三日間は板持村と彼方村はそれぞれ二分の一、四日目は板持村が四分の三、彼方村が四分の一の割合で水を取ることになる。そして、この番水方法は将来にわたって遵守すべきものとされた。また、この証文には、「番水之儀者、隣郷之井水之なみニ可仕事」と注記があり、番水は近隣の井堰の様子をみて行うように決められている。

 この年の水論は、上方の地方行政を担当していた五味備前守と水野石見守が審理し、彼方村と西板持村の近隣の衆に解決を命じている。近隣の衆は、錦部郡の錦郡・市・四ツくのき・向田・上田・伏見堂村、石川郡の東板持・富田林村の八カ村一一名であり、彼方村や西板持村と同じ領主の村や幕府領の村から選ばれている。五味と水野は、水論の当事者と同じ領主の村や幕府領の村など在地の集団的な力によって、この水論を解決しようとしたものと思われる。

 このように、嬉・横山・伏見堂三カ村や彼方・西板持村については、河川から取水する井堰や溜池などの主要な水利施設は明らかであるが、それらの成立年代は判明しない。また、彼方と西板持の間に渇水期の水利について、番水の協定が結ばれたことが確認できる。こうした点については、以下に述べる村々についても同じことがいえる。