さて、ここで再び東条川に目を転じよう。二で述べたように、東条川の上流には畑田井堰が設けられていた。そして、この川筋には畑田井堰の他に一〇を超える井堰があり、神山村から一須賀村にいたる八カ村が利用していた。これらの井堰の中で上流の畑田、越ケ井、寺井の三つは三~四カ村が共同で利用しており、寺井より下流の井堰は庄ノ内を除いて、一村が単独で利用している。村別に見ると下流の北大伴村は五つ、南大伴と山城村はそれぞれ三つの井堰を利用している(「東条川筋井堰明細地図」(野村豊『水利』に収録))。
次に、これらの井堰のうち寺井堰について見ることにしよう。
慶長九年(一六〇四)八月、寛弘寺・山中田・南大伴・北大伴の四カ村は、寺井堰の井水について番水方法を定めた請文を作成している。これによると、寺井の水は、一番に四日四夜、南大伴、山中田、北大伴が取り、二番に三日三夜、寛弘寺が取ることとされた。また三カ村の中では山中田が一日、その夜は北大伴、三日三夜は南大伴の順で取ることになっている。この請文は豊臣代官の伊藤左馬頭のもとへ「双方」が出頭し、その指示を受けて作成されており、渇水期の寺井水の利用をめぐって、寛弘寺村と三カ村の間に水争いがあったものと思われる(近世Ⅵの二)。この慶長九年の定めについては、二五〇年ほど後の嘉永五年(一八五二)に作成された証文においても言及されており(野村豊『水利』)、近世をとおして寺井水の番水の準拠とされていた。
ところで、同じ慶長九年の七月、四カ村は寛弘寺村の薦(こも)池についても請文を作成している。これによると、このときより前に池を築くにあたって、豊臣代官の伊藤左馬頭から、池の堤は四つに分けて一分ずつ築き、池の水も四つに分けて一分ずつ取るようにとの指示があった。そして、慶長九年七月には、池水はくじで取ることを定めている(近世Ⅵの一)。この薦池については、その後の記録には表れないが、寺井に関する一史料(年次を欠く)によると、寺井水を利用する四カ村には「込(こみ)池」と呼ばれる「用水助之溜池」があった(野村豊『水利』)。両者は同一の溜池かもしれない。