ここで、東条川筋において最も多くの井堰を利用していた北大伴の水利用について見ておこう。上述したように、北大伴村は寺井堰の一員であったが、これより下流になると井堰の数が増え、井堰と井堰の間隔が狭くなる。このため渇水の時期には、下流ほど水が不足することも重なって、井堰間の対立が絶えなかった。北大伴村の水論のおもな相手は南大伴村と山城村であった。
まず、南大伴村との間では、天和三年(一六八三)に水論となり、北大伴村は村高五八〇石のうち三〇〇石余りは下溝井堰に依存していること、相手の村とは六〇年ほど前の元和七年(一六二一)に争いとなり小堀遠江守へ訴えたこと、また代官松村又七郎の時代には南別井村と争いがあったこと、などと述べている。その後、元禄一四年(一七〇一)からは下溝の水をめぐって南大伴村と争い、番水の時期には、双方の田地の高に応じて、一〇日間の内、一二〇分の三の水を南大伴村へ渡すこととなった(近世Ⅵの二)。さらに、寛延三年(一七五〇)には渇水期の井堰の管理について出入りとなった(近世Ⅵの三)。
東条川筋の井堰をめぐって、北大伴村は山城村とも水争いを繰り返している。北大伴のかち井堰は八反程の田地を養っているが、このすぐ下手には山城村のかいる田井堰がある。これらの井堰の水利用については、享保年間に出入りがあった(近世Ⅵの二)。その後、八〇年近く経過した享和元年(一八〇一)、さらに五年後の文化三年(一八〇六)にも北大伴村と山城村および同村へ出作している大ケ塚村の農民との間に水論が持ちあがっている(野村豊『水利』)。そして、文化三年の水論に対しては、同五年に大坂町奉行所より裁許があり、渇水のときは両村の間で日割りで番水を実施するように決定された。その方法は、一〇日間に、北大伴、山城の順に三度番水を繰り返し、二順目に戻るというやり方であり、番水の割合は、北大伴四分五厘、山城五分五厘であった(北大伴三嶋家文書「字かち御裁許書之写」)。