村内の水論―北大伴村

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これまでは、おもに水論の記録をとおして、井堰をめぐる村と村の水利上の関係を見てきた。そして、村々は渇水期の水不足が原因となり、貴重な、僅かな水を求めて対立し、番水という水の配分方法を採用して、争いを解決し、新しい水利上の関係を生み出したことが明らかとなった。

 こうした渇水期の水不足を原因とした対立は、村の内部においても発生する可能性は予想できる。しかし、村内の水争いが記録に留められる例は数が少ない。ここに取り上げる北大伴村の例は、その一つである。

 元禄一四年(一七〇一)六月、北大伴村において肝煎(きもいり)および惣百姓と百姓理左衛門との間に出入りが生じた。まず、双方の言い分を要約しておこう。理左衛門は次のように訴えている。

(1) 南大伴村のかちという所に、中田六畝二〇歩、分米九斗九升八合の田地を所持しており、用水は北大伴村の下溝掛かりである。

(2) この田地を南大伴が所持していたころは、番水の時にも溝口をあけて水を入れてきた。しかし、自分が所持してからは、渇水になると庄屋へことわり、その指図を受けて水を入れてきた。

(3) 今年は旱(ひでり)が続き、番水になったので、庄屋へことわり、庄屋の指図で水を入れる者に申し付けられて、水を入れた。

(4) ところが、北大伴村の肝煎と百姓は、これまで水を入れてこなかった田地へ、庄屋の了簡で水を入れるのは不届きであるといい、庄屋から科料を取った。

 これに対して、肝煎と惣百姓方は次のように反論している。

 (1)と(2)については、下溝の水がたくさんあるときには水を入れさせている、しかし、渇水になり番水のときは一水も入れさせていない。

 (3)については、六月五日の晩、理左衛門の「たくらみ」により、庄屋を「たぶらかし」たということで、庄屋にどのような心入れがあったのか、水役の者に申し付けて、この田地へ水を入れさせた。

 (4)については、理左衛門の田地へ水を入れたことについて詮議したところ、庄屋は、その水は自分が「盗み入れ」させたもので、科料は自分から出すといい、前々からの村の定めのとおり、大麦五斗を村の役人に持たせてきたので、受け取っておいた。

 (5)さらに、同じときに南大伴村の庄屋から、余田(理左衛門の田地以外)にも水を入れさせてほしいと二度いってきたが、番水の水を入れさせる例はないと、二度とも返事をされた。ところが、大勢で押し掛け、水番の者を追い払い、水を切り落として入れるところを、ようやく堰き止めた。

 さて、この水争いの特徴としては、第一に、北大伴の百姓が南大伴に所持する田地が争点となっていること、第二に、この田地へは庄屋の判断で水を入れており、庄屋が科料を出していること、第三に、肝煎および惣百姓が抗議していること、などが指摘できる。

 第一の点について見ると、先に述べたように、この年には南大伴村との間で、北大伴村の下溝井堰をめぐって出入りが発生しており、二つの出入りは密接に関連している。この面では、北大伴村内の水争いは、村と村の水争いという性格も有している。しかし、第二、第三の点について見ると、庄屋と理左衛門との間には、村を預かる庄屋と一人の百姓との関係よりも深いものがあり、肝煎および惣百姓はこの点を問題としているように思われる。そして、この点を明らかにするためには、当時の村の状況を広い視点から捉える必要がある(近世Ⅵの二)。

 北大伴村においては、一四〇年ほど後の天保一〇年(一八三九)にも、一人の百姓とその親を相手として、惣百姓から「用水差妨いたし并我儘取調願」が提出されている。この訴えの第一の理由は水の問題であるが、そのほかにも、村の運営に係わるこれまでの経過が密接に関連している(北大伴三嶋家文書「乍恐御訴訟」)。