深溝井路と粟ヶ池

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石川の左岸にある村々の地形は、西の羽曳野丘陵から東を流れる石川に向けてなだらかに傾斜しており、水利は大小数多くの溜池と石川の水に依存している。また、一部の村は羽曳野丘陵の西側の傾斜地に位置している。

 石川から取水する方法としては次の二つがある。一つは川に沿った低地の田地へ水を引くために、各村が石川に井堰を設置するやり方である。もう一つは、石川上流部の他村の領内において取水し、左岸の台地上を下流の村まで導くやり方であり、荒前井路や深溝井路が利用された。このうち錦郡村内において取水する深溝井路は毛人谷・新堂・中野・喜志・新家の五カ村が立合で管理しており、約三〇〇〇石の田地を養っていた(「喜志村明細帳」(『富田林市史研究紀要』四)所収)。

 各村の村明細帳によると、この水路は「ふかうそ(ふこうそ)」(明和六・明治二年、喜志村)とか、「深溝」(文政一一年、新堂村)とか、「封神溝」(天保一四年、毛人谷村)などと記されている。また、作成年代は不明であるが、甲田村の村絵図には「ふこそ」、彼方村の村絵図には「ふこうと」と記されている。このように平仮名で表記する例が多いが、毛人谷村のように独特の表記をもつ例も見られる。

 さて、前に述べたように、深溝井路の取水口にあたる井堰は、石川右岸の彼方村と西板持村の井堰の近くに設けられており、東西両岸の村が川水の獲得をめぐって対立するときもあった。近世後期の文政七年(一八二四)、五カ村は彼方村と西板持村を相手として大坂町奉行へ訴訟を起こした(新堂平井家文書「乍恐御訴訟」)。訴えによると、両村が取水を改善するために新しく溝を掘ったり、用水樋を低く設置したりしたため、対岸の五カ村の用水に支障をきたしたことが争いの原因とされている。これに対して両村は、そのようなことはしていないとか、他の村から指図を受けるいわれはないなどと反論し、また、相手方は五年前に深溝井堰を一六〇~七〇間も上流へ移しておきながら、今になって水の便が悪くなったと訴えるのはおかしいと批判している。

写真174 深溝井路

 ところで、この年の水論の記録によると、深溝井路筋の水上にあたる甲田村(幕府領)と向田村(大名領)の田地の一部も井路の水を利用していた。そこで、五カ村は訴訟に先立って両村の意向を確かめたところ、これらの田地の水は別に確保できること、また、この水路の維持負担はすべて下郷にあたる五カ村が引き受けているので、出入りには関与しないという返事があった。

 深溝井路の水は最後には喜志村にある粟ヶ池に貯えられる。古代に遡るとされるこの池の由来については、江戸時代よりいくつかの説が唱えられている(『大阪府の地名Ⅱ』(『日本歴史地名大系』二八、平凡社))。ここでは、喜志村の記録に依拠して、近世中期の粟ヶ池の様子を述べておこう。まず、明和六年(一七六九)の村明細帳によると、この池の水は喜志村と新家村の立合で利用しており、毎年八十八夜前後より深溝井堰に水を引いていた。

写真175 粟ヶ池

 また、この明細帳には、明和三年に池浚えの普請を願い出て、人足の扶持米を支給されたと記されている。この年の普請の記録によると(喜志谷家文書)、村高の約三五%にあたる六二五石余の田地が粟ヶ池の水に依存しているが、年々深溝井路から土砂が流れ込み、池床が浅くなったので、これを浚えて深くし、同時に浚えた土砂を利用して池の南西部に耕地を造成する計画を立てている。こうした土砂の処分を兼ねて造成された土地は、当時すでに七五〇坪ほどになっていた。そして、この年には、池床面積約二万三二〇〇坪(七町七反三畝)のうち二三%に相当する五二五〇坪を埋め立てようとしたのであった。しかし、二〇年ほど後の寛政一〇年(一七九八)にも同様の普請を出願しており、この時には、池床の坪数を二万三五〇〇坪(七町八反三畝)と積算しているので、明和年間の普請は実際には当初の計画よりもかなり規模の小さなものであったと考えられる。

 ここで、喜志村における用水管理のありかたについて述べておこう。村明細帳によると、村役人である年寄のうち二人が年番で用水の世話をしており、この他に水引役が五人おり、さらに深溝井路の水引のために向田村へ遣わされる者がいた。こうした用水の世話役の費用は村が負担していた。

 喜志村では元禄六年(一六九三)、用水取締りのため村民が守るべき定書を作成している。この中で、用水施設の普請、用水の管理、牛馬の飼育、その他について規定しており、違反者には過料を課す条項も含まれている。それから一三〇年ほど後の文政二年には、村民の用水管理が疎かになってきたとして、元禄期の定書を再確認するとともに、心得違いの者には過料を課すと定めている(喜志谷家文書「用水取締請判帳」(文政二年五月))。

 こうした用水管理の定書は毛人谷村においても作成されている。同村では幕末期の安政三年(一八五六)に一三カ条からなる「領内用水取締ケ条帳」をしたため、植付け水、養い水などの用水管理、地主と小作人双方による見回り、綿作の水などについて規定している。そして、違反した者は領主役所へ出訴すると定めている(近世Ⅵの四)。