石川左岸にある村は農業用水の多くを溜池に依存していた。先に述べた深溝井路を利用する村の中で、毛人谷村には新堂村と立合の三つの他に、九つの溜池があり、同村の田地の一五%は深溝井路、八五%は溜池に依存していた(近世Iの四)。また、新堂村は毛人谷村と立合の三つを合わせて一三の溜池を利用しており、文政一〇年(一八二七)には溜池を新しく築造している。同村では村高のうち一一〇〇石余は井路、四〇〇石余は溜池、二〇〇石余は天水に依存していた(近世Ⅰの二)。さらに、喜志村には新家村と立合の八つを合わせて三三の溜池があったが、明和六年(一七六九)と明治二年(一八六九)の村明細帳の溜池に関する記述は変わっていないので、一〇〇年の間に新しい溜池は造られていないことになる。
ところで、幕末期の嘉永六年(一八五三)、中野村は丘陵地にある南原池の拡張を企て、喜志村と新家村に了解を求めてきた。しかし両村は、水上にあたる中野村の貯水が増加すれば水下の流水が不足するとして計画に反対した。この問題は領主役所に持ち込まれ、取扱人を交えて話し合われたが、五年後の安政四年になっても解決を見ていない(喜志谷家文書)。
これらの村の溜池は主として西部の丘陵地に築かれており、この地域の代表的な溜池の一つである新堂村と毛人谷村立合の黒尾池は廿山村にあった(この池は廿山村の村明細帳には、九郎五郎池と記されている)。そして、高い所にある溜池からいったん低い所にある溜池へ水を移して利用する例も見られ、この場合、これらの溜池は親池と子池、孫池の関係にあった(『富田林市誌』)。
石川左岸の錦部郡の村にも数多くの溜池があった。各村の村明細帳により溜池数を記すと、錦郡村一五、新家村七、甲田村四、廿山村は他村の溜池四つを除いて四二四、錦郡新田は廿山村内の一つを合わせて七、伏山新田七、加太新田三を数える。これらの村のうち錦郡村と甲田村は石川に接しており、新家村を含めて石川の水を引く水路が流れている。
しかし、この他の丘陵地の村は溜池と谷川水に依存しており、なかでも村域の大きな廿山村には実に四〇〇を超える溜池が築かれていた。廿山村には、先述した九郎五郎池の他にも半田村の寺ケ池、池尻村の櫃池、錦郡新田のミぞハ谷池などがあり、隣接する村々への用水の重要な供給源となっていた。
さて、廿山村の西北の一角に位置する加太新田は近世に新しく開発された村の一つである。加太新田を含むこの地域は、くのき平、かうへ平、くミが平などと呼ばれる芝地であり、丹南郡の池尻村や菅生・平尾・東野村(現大阪狭山市、美原町)の溜池は、この一帯の水を集めて水源としていた。そして、芝地開発の進展に伴って、開発者と丹南郡の村々との間に水資源の確保をめぐる対立が発生した。
享保元年(一七一六)、この問題をめぐる二つの争いが解決している。一つは、くのき平の芝地開発に係わる菅生・平尾・東野三カ村と新田請負人木村主馬の訴訟である。この訴訟において三カ村は、開発に伴い村々の利用する池尻村の大鳥池は水が不足し、土砂が流れ込むと主張した。同年九月、京都町奉行所から裁許があり、三ケ村の訴える用水確保と砂防対策を講じたうえで開発を行うように命じている(近世Ⅲの八)。
もう一つは、三つの芝地の開発に係わる池尻村と木村主馬の争いである。この争いにおいて池尻村は上記の三カ村と同様に、開発に伴い同村の櫃池、中池、雀池、新シ池は水が不足し、土砂が流れ込むと主張した。享保元年一一月、狭山藩の吟味を経て定書が作成され、対応策として新しく溝を掘り、要所に土砂を沈澱させる淵を造り、溜池の水を確保することなどが決められている(近世Ⅲの九)。享和二年(一八〇二)に作成された加太新田の村明細帳によると、これらの溝の敷地は年貢が課税されない除地となっており、上記の四つの溜池に加えて、寺ケ池、がま池にも溝手が造られていた(近世Ⅷの六)。