石川と西条川

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富田林市域の近世文書を読んでいると、「西条川」という現在では耳にしない河川の名前が出てくる。西条川とはどこを流れている川のことであろうか。

 これを知る第一の手がかりは、享保年間末(一七三〇年代)に刊行された、幕府による最初の官撰の地誌『五畿内志』である。これには西条川と石川について次のように記述されている。紀伊国や大和国との国境の山間地帯を源とする石見川、石佛川、加賀田川、唐川などが長野において合流しており、これより下流は西条川と呼ばれる。西条川はさらに山中田において佐備川を合わせ、大伴において東条川と合流して石川となる。

 こうした記述は、『五畿内志』より六五年ほど後の享和元年(一八〇一)に刊行された『河内名所図会』に継承されている。さらに、明治七年(一八七四)に富田林村から提出された「一村限調帳」には、「石川の水源は四つあり、これらの流れは長野村において合流し、西条川という。当村の川表より石川と唱える。」と記されており、やはり『五畿内志』を踏襲している(近世Ⅰの一)。

 この『五畿内志』の説明によると、西条川というのは今日の石川筋のうち、長野の合流点から大伴の合流点にいたる間を指している。しかし、明治三六年に出版された『大阪府誌』に収録されている河川の水源、経過地名、流末を示した「河川の脈略」では、現在と同様に、河内長野市瀧畑を水源とする川を石川(本流)と呼んでおり、この一部を指す西条川という名称は出てこない。

 それでは次に、西条川について地元の記録を見ることにしよう。まず、村明細帳にはどのように記述されているであろうか。元禄三年(一六九〇)の板持村では「大川」、宝永二年(一七〇五)の伏見堂村と向田村では、単に「流川」とある。それからやや時代が下って、享和二年の錦郡村では「西条川」、同年の嬉村では「西条川」、同年の彼方村では「西条川」とか「国役御普請所西条川東堤」と記されている。しかし、文化一四年(一八一七)の彼方村では、村の西境は「石川限り」とある。

 さらに、西条川と佐備川・東条川の合流点に近い村の記録を見ると、享保一〇年(一七二五)の板持村の工事記録では「石川堤国役御普請」、享保一七年の北大伴村の水論記録では「西条川表国役御普請所」、天保九年(一八三八)の同村の工事記録では「石川筋」と記されている。

 以上の記述をまとめると、次の四点に要約される。第一は、『五畿内志』の出版より三〇~五〇年ほど以前の元禄・宝永年間には、西条川という名称はまだ定着していなかったことである。第二は、彼方村の例に見られるように、近世後期になると西条川を石川と呼ぶ場合もあったことである。第三は、工事記録に見られるように、これよりも早く近世中期から西条川は石川と呼ばれていたことである。この点は彼方村についても当てはまり、明和四年(一七六七)の堤防工事の記録には「石川筋東堤」と記されている。第四は、それにも拘らず明治初期には、村勢について正式の書類を提出する場合には、西条川の名称が用いられていたことである。そして、明治三〇年代になると、河川の記録の上からは西条川の名前は姿を消すことになる。