河川支配の諸相

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さて、淀川、木津川、大和川、石川などは、大阪平野を水害から守り、流域農村に潅漑用水を供給し、大都市大坂と周辺の各地を舟運で結ぶための基幹的な河川であった。幕府は畿内支配の一環として、早くからこれら主要河川の役割を重視してきたが、河川の管理体制が整備されたのは、一七〇〇年前後の四〇年ほどの時期であった。

 幕府の河川支配は、河川の全般的な管理、堤防の管理、上流部における砂防対策の三つから成り立っていた。

 まず第一に、河川の全般的な管理について見ると、貞享四年(一六八七)にはこれら主要河川の川筋のうち大坂町奉行所の管轄が定められた。石川筋では川上富田林まで、大和川筋では川上亀瀬までが管轄とされ、摂津国と河内国の「枝川筋」も残らず同町奉行所の管轄であった。この枝川には、富田林より上流の石川筋も含まれる。さて、大和川筋の亀瀬は河内国と大和国の国境にあり、管轄範囲としては自然な境界である。これに対して、石川筋は富田林までとされており、これには二つの理由が考えられる。一つは、富田林が石川筋では最も中心的な町場であるという経済的な理由であり、もう一つは、富田林付近までは石川、それより上流は枝川とみなされていたという地理的な理由である。

 その後享保三年(一七一八)、町奉行所による河川の管轄が変更され、石川は大和川・新大和川とともに堺奉行所の管轄となった。またこの年には、河川管理を強化するため奉行所において川奉行が独立した職掌となった。続いて享保七年には、摂津・河内・和泉・播磨四カ国の在地に生じた紛争の裁判は、京都町奉行所から大坂町奉行所に移管された。そしてこの年から、富田林市域の村々の水論は河川、溜池、井路を問わず、大坂町奉行所の地方役所が裁判を担当することとなった。しかし、水論の当事者が同じ領主の支配下にあるときは、領主が裁判を行った。

 次に、河川管理の第二の柱として、治水対策の要である堤防の管理について見ることにしよう。大川と呼ばれる主要河川の堤防の管理は、とくに大坂に駐在する幕府代官が担当した。この大坂代官は、畿内の幕府領の支配をはじめ多くの職務を担っており、堤防を管理する職掌は堤奉行と呼ばれた。また、大川の堤防は国役堤とか国役普請所と呼ばれ、一七世紀中期より整備が進められてきた。そして、享保七年からは、堤防の工事費用のうち、地元負担の他は幕府と山城・大和・摂津・河内・和泉五カ国の村々が負担することになった。国役という呼び方は、大規模な工事の費用を国全体に賦課したことに由来している。

 さて、享保七年には国役河川の対象が拡大され、河内国では石川が新しく指定された。村明細帳によると、富田林市域においては右岸では彼方村、左岸では新堂村に国役堤があるので、これより下流の両岸の村に国役堤があることは確かである。しかし、これより上流については、右岸では伏見堂村と横山村は不明であり、嬉村には国役堤はない。また、左岸では甲田村は不明であり、錦郡村には国役堤はない。嬉村と錦郡村に国役堤がないのは、これらの村の付近では堤防を築く必要がなかったからであろう。

 この国役普請は大川堤の守護を目的としており、堤防を補強、修復する工事に加えて、堤防に設置された樋や堤防を保護するために設けられた水除けと呼ばれる施設の工事も対象とされた。国役普請には毎年春に行われる常例普請と洪水・水害の復旧のために行われる臨時普請があった。このうち、常例普請については年間の実施計画が定められており、普請を希望する村はこの計画に従って堤奉行に出願した。これ以外に、地元が費用をすべて負担して行う自普請があった。

 国役普請の一例として、水害に見舞われることの多かった西板持村について見ておこう(野村豊『水利』)。西板持村では、天明七年(一七八七)三月末より四月上旬にかけて、常例普請として堤防と蛇籠の工事を行っていたが、雨天が続き、増水したため工事を中断した。また、国役堤のうち水当たりの強い場所は後日に自普請を行うこととし、それまでは簀戸を差し入れて補強することにした。しかし、その後も洪水により、甘南備川の堤防が決壊、損壊したり、国役堤など各所の堤防に被害が拡大した。二年後の寛政元年(一七八九)八月、堤奉行より秋の臨時普請の仕様帳が示され、堤防の修築と蛇籠、水摺杭、麁朶(そだ)による堤防の保護などの復旧工事が行われることになった。

 ここで、国役堤との関連で、石川と西条川の関係についてもう一度述べておこう。先述したように、西条川は現在の石川のうち長野の合流点から大伴の合流点までを指しており、明治初期までこの名称が用いられていた。しかし、国役普請の記録では、享保七年に石川が国役河川に指定されて以来、西条川も石川の一部とみなされてきた。そして、堤防の維持と普請は地元村の大きな関心事であり、時代を経るにつれて、一方では西条川という名称を継承しながら、他方ではこの川を石川と呼ぶ場合も生じてきたのではないだろうか。

 第三に、河川上流部における砂防対策を見ることにしよう。近世において砂防は「土砂留」と呼ばれ、中、下流地域における水害を防止するうえから重視された。幕府は一七世紀中期の寛文六年(一六六六)に「山川掟」を定め、草木を根こそぎ掘ることを禁止し、植林を奨励するなどの砂防策を通達したが、畿内においてこの対策が本格化したのは貞享元年からであった。この年、幕府は山城・大和・摂津・河内・近江五カ国を対象として砂防令を制定した。そして、土砂留対策を京都町奉行の支配とし、これを実施するため畿内の一一名の大名に土砂留奉行役を命じ、村々を郡単位で分担させた。

 その後、元禄二年(一六八九)には摂津、河内両国の土砂留対策を大坂町奉行の支配に移し、改めて四名の大名に土砂留役を命じた。これを担当した大名は、錦部郡など四郡は和泉国の岸和田藩岡部氏、石川・古市二郡は近江国の膳所藩本多氏であった。このうち岡部氏は担当した四郡に領地はないが、本多氏は石川郡に領地を有していた。

 さて、土砂留を励行させるため、担当大名の役人と町奉行所の川方役人は、それぞれ一年に二度、村々を見分した。村明細帳を見ると、富田林市域の村で見分場所があったのは二カ村であり、嬉村では領地内の川筋と立合山である嶽山、廿山村では谷川筋長さ三六一間が対象となっていた。しかし、これら両村の他にも、佐備川筋や東条川筋の村に土砂留場所があった。