貢租負担の数々

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検地による土地制度の確立を前提として、幕藩制の物質的基礎である年貢の徴収が行われた。徳川家康のものと伝えられる「郷村百姓どもをば、死なぬように生きぬようにと合点いたして収納申付る」(『落穂集』)という言葉に象徴されるように、土地生産物のうち、農民には生存に必要な最低必要限度のものを残し、そのほかはすべて年貢・諸役として収奪すること、これが支配者側の論理であった。

 貢租は、田畑屋敷地にかかる本年貢(本途物成)が中心であったが、ほかにも、口米・欠米などの付加税、小物成・運上・冥加などの雑税、助郷役・普請役などの夫役とそれが貨幣納と化した高掛物があった。幕府領の高掛物は、御伝馬宿入用米・御蔵前入用米・六尺給米を指し、高掛三役と呼ばれた。御伝馬宿入用米は高一〇〇石につき六升の割合で賦課され、五街道宿駅の費用、御蔵前入用米は高一〇〇石につき銀一五匁と定められ、江戸浅草の米蔵の経費、六尺給米は高一〇〇石につき二斗が課され、江戸城の御用部屋・御膳所などで雑役に従事した六尺という人夫の給米に充てられた。いずれも、元禄年間(一六八八~一七〇三)までには定着したと考えられている。

 地域的な雑税としては、山年貢の小物成と紺屋役の運上があった。正保二年(一六四五)に村々を廻村・調査のうえ作成されたいわゆる「正保郷帳」から、それらを拾い出すと、表53のとおりである。山年貢は、小松・雑木・唐竹などが自生している柴山や草山が対象とされた。理由は明らかでないが、課税標準の山高が記された村と納入すべき米あるいは銀高が記された村とに分かれている。

表53 村々の小物成と運上〔正保2年(1645)〕
郡村名 山年貢 紺屋役
錦部郡伏見堂村 1.760
   板持村 0.800
   彼方村 2.800
   錦郡村 3.080
   廿山村 6.533
   甲田村 3.602
石川郡新堂村 2.520
*0.700
   喜志村 4.025
   中野村 0.700
   富田林村 100.0
   北大伴村 100.0
   南大伴村 28.8
   山中田村 24.0
   板持村 1.730 6.0
   佐備村 14.700
   甘南備村 **4.410 140.0
   龍泉村 5.299
合計 33.275 19.384 198.8 200.0

注1)*は喜志村と立合,**は龍泉村と立合。
 2)『河内国正保郷帳写』(『枚方市史資料』8)により作成。

 山年貢賦課の始まりについて、喜志村の明細帳には、「寛文九酉年、石川主殿頭様御代ゟ上納仕候」、すなわち寛文九年(一六六九)、山城国淀藩石川憲之の支配に転じたときからであると記されている。山中田村の明細帳も同じである(近世Ⅰの五、「富田林市域とその周辺の村様子明細帳」(『富田林市史研究紀要』四))。寛文九年は正保郷帳の作成時からほぼ四半世紀が経過しており、この記述は明らかに誤りである。

 正保郷帳によると、錦部郡伏見堂・彼方・甲田・新家、石川郡佐備・龍泉などの村々は近江国膳所藩石川忠総の所領であり、和泉国陶器藩小出有棟領の錦部郡板持村、幕府代官松村吉左衛門支配の山中田村・龍泉村についても、山年貢高は膳所藩の支配であった。石川忠総が下総国佐倉から淀に入部し、河内国に所領を持つようになったのは寛永一一年(一六三四)である。慶安三年(一六五〇)忠総が没すると、翌年孫の憲之が遺領を継いで伊勢国亀山に、さらに寛文九年には山城国淀に移された。先に紹介した喜志村・山中田村の明細帳における記述は、官職名がともに主殿頭であったため忠総と憲之とを取り違えた可能性がある。その場合、山年貢の賦課は寛永一一年から正保二年までの間に始められたことになる。

写真176 山中田村現景

 紺屋役の運上は、富田林村と北大伴村に銀一〇〇目ずつ課されている。これは、両村が富田林組・大伴組を組織し、村々の運上銀を取りまとめて納入していたことを意味している。富田林村の明細帳には、「紺屋運上銀差上申候紺屋高之義者、畠山高政様・三好山城守様・松平<ママ>弾正様・信長様・太閤様御代々、諸役御免之御状被下置、北大友村所持仕居申候、年々右之通四ケ村(富田林・毛人谷・新堂・中野)ヨリ当村へ取集、上納仕来リ申候、然共御差紙ニも御運上之訳無御座候、勿論御請取も相見へ不申候処、寛文九酉年より石川主殿頭様御知行所ニ相成、則当村御免状ニ紺屋運上銀と御書載被為成候」と記されている(近世Ⅰの三)。

 まず、中世末以来の由緒については、諸役免許の事実関係が史料上明らかでないが、紺屋運上が木綿加工業の早期的展開を伝えるものであったことは間違いない。そしてこれも、いつのころからか賦課が始まり、寛文九年山城国淀藩石川憲之の所領になったとき、正規に免状に記載されるようになったらしい。なお、運上銀の分担は表54のとおりであった。役高が何を基準に設定されたのかは知られない。銀高はおおむね役高に比例して割り振られているようであるが、厳密には、富田林村と太子村(現太子町)が比例配分の銀高を下回り、そのほかの村々は比例配分を上回る負担になっている。

表54 紺屋役高と運上銀
村名 紺屋役高 運上銀高
富田林村 7.500 4.30
毛人谷村 51.463 31.91
新堂村 100.105 62.07
中野村 2.770 1.72
小計 161.838 100.00
北大伴村 204.350 48.17
森屋村 75.000 20.27
太子村 153.500 31.56
小計 432.850 100.00
合計 594.688 200.00

注)『富田林市誌』。

 さらに延享三年(一七四六)には、下総国佐倉藩の所領から幕府領となり、代官角倉与一の支配を受けることになった村々のうち、石川郡二三カ村、古市郡一カ村の二四カ村は、渋柿運上の上納を命ぜられた。合計銀高は一八匁五分で、当初はそれを村高に応じて割り付け、富田林村から一括納入されていたが、明和七年(一七七〇)以降には村々が個別に納めるようになった。いくつかの村について負担銀高を紹介すると、富田林村一分一厘六毛、新堂村二匁一分二厘、毛人谷村八分四厘、山中田村五分七厘、喜志村二匁二分五厘であった(近世Ⅰの二~五、「富田林市域とその周辺の村様子明細帳」(『富田林市史研究紀要』四))。銀高はわずかであるが、何でも課税の対象にしようとする領主的衝動の強さをうかがうことができる。

 天保一三年(一八四二)、富田林村庄屋平左衛門は、二四カ村の惣代として渋柿運上の免除を石原清左衛門代官所に願い出た。畑の畔や屋敷地に柿の木が植えられているのは事実であるが、畑・屋敷地には本年貢が課せられているから、さらに渋柿運上を上納するのは二重の負担であるというのがその理由であった。しかし、聞き届けられることはなく、渋柿運上銀の賦課は幕末まで継続された(『富田林市誌』)。

 ほかにも、村々の免状には酒運上・水車運上・川舟運上・質屋運上など、さまざまな税目が見受けられた。これらは営業税に相当する雑税であった。