幕府領の貢租

619 ~ 622

近世初期、幕府領村々のうち山中田村と北大伴村の年貢を見ると、表55・56のとおりである。いずれも、年々の実収高に応じて取米を決定する検見取が行われていた。

表55 山中田村の年貢
年次 諸引 毛付高 取米 高免 毛付免
寛永13(1636) 80.694 372.745 258.460 57.0 69.3
  14(1637) 80.694 372.745 253.920 56.0 68.1
  15(1638) 85.799 367.640 258.460 57.0 70.3
  16(1639) 80.889 372.550 258.340 57.0 69.3
  17(1640) 137.299 316.140 240.320 53.0 76.0
  18(1641) 100.889 352.550 258.460 57.0 73.3
  19(1642) 118.539 334.900 217.650 48.0 65.0
  20(1643) 79.908 373.531 208.580 46.0 55.8

注1)村高453石4斗3升9合。
 2)山中田杉山家文書「免定」により作成。

表56 北大伴村の年貢
年次 諸引 毛付高 取米 高免 毛付免
明暦1(1655) 164.833 415.627 246.700 42.5 59.4
  2(1656) 156.086 424.374 313.449 54.0 73.9
  3(1657) 156.086 424.374 359.885 62.0 84.8
万治1(1658) 249.708 330.752 301.840 52.0 91.3
  2(1659) 191.538 388.922 337.905 58.2 86.9
  3(1660) 295.889 284.571 236.007 40.7 82.9
寛文1(1661) 177.826 402.634 351.407 60.5 87.3
  2(1662) 233.518 346.942 283.923 48.9 81.3
  3(1663) 250.030 330.430 240.473 41.4 72.8
  4(1664) 211.991 368.469 312.454 53.8 84.8
  5(1665) 158.286 422.174 291.454 50.2 69.0
  6(1666) 181.396 399.064 277.576 47.8 69.6
  7(1667) 170.468 409.992 300.022 51.7 73.2
  8(1668) 144.079 436.381 261.828 45.1 60.0

注1)村高580石4斗6升。
 2)北大伴西村家文書「免定之事」「御年貢米之事」により作成。

 山中田村は、慶長一三年(一六〇八)の検地による村高が四五三石四斗三升九合であった。石川の支流佐備川の下流右岸に位置し、永荒・川成・水押などが多く発生したため、諸引が村高の一七・六%から三〇・三%を占め、高免は年により四六%から五七%までの変化が見られた。毛付免も五五・八%から七六・〇%までの大きなばらつきがあり、収量の不安定さがうかがわれる。

 北大伴村の村高は、五八〇石四斗六升であった。村域が石川とその支流の千早川にはさまれ、永荒・川成・水押皆無などの諸引は山中田村よりも多く見受けられ、村高の二五%から五一%にも達した。このため、毛付高は年次的に大きく変動し、取米もきわめて不安定であった。なお表示の年次のうち、領主支配は、明暦元年(一六五五)と寛文八年(一六六八)が幕府領、その間は京都所司代牧野親成の所領であった。万治元年(一六五八)、毛付免は九一・三%に達しているが、同人領の一二年間におけるその単純平均は七九・八%であり、幕府領のときに比べると、ほぼ二〇ポイントも高い租率が設定されていたことが知られる。

 幕府は、享保三年(一七一八)九月、定免制の施行に向けて準備を進めるよう諸代官に命じた。定免制は、現行の検見取に代わって、過去の取米を平均して租率を定め、一定の年季中、定率の年貢を徴収する方式で、享保の改革に伴う年貢の増徴と安定を目的とする収納法であった。定免制の導入には、検地が適正で水利条件に恵まれ、収量・取米の安定した村が対象で、かつ村方の同意が必要とされた(『格致累年録』後集一)。同六年七月にも、幕府は「御年貢納方之儀、百姓に得心致させ、定免ニ極候条、連々以可被申付候」と達しているが(『御触書寛保集成』)、河内国の幕府領では、定免制は享保九年から順次実施に移された。しかし、このころ、近世初期とは異なり、市域に幕府領の村々はほとんど存在しなかった。

 当時、下総国佐倉藩領であった山中田村・北大伴村は、延享三年(一七四六)に幕府領に戻った。しかし、毛付高の年次的変動はあいかわらず大きく、定免制の実施が年貢負担の過重に結び付くのは自明のことであったため、検見取が継続された。延享三年同じように幕府領となった喜志村も、表57のとおり、宝暦から明和年間においても検見取が行われていた。新田畑の毛付免は二九・三%の定率であったが、本高のそれは生産力の不安定さを反映して、五〇%以下でかなり変動している。

表57 喜志村の年貢
年次 本高 新田畑
諸引 毛付高 取米 毛付免 取米 毛付免 取米合計
宝暦9(1759) 26.906 1,774.984 887.499 50.0 7.159 29.3 894.658
  10(1760) 26.906 1,774.984 825.663 46.5 7.159 29.3 832.822
  11(1761) 26.906 1,774.984 805.712 44.7 7.159 29.3 812.871
  12(1762) 26.906 1,774.984 824.900 45.8 7.159 29.3 832.059
  13(1763) 20.503 1,781.387 839.206 46.6 7.159 29.3 846.360
明和1(1764) 23.156 1,778.734 846.101 47.0 7.159 29.3 853.260
  2(1765) 191.920 1,609.970 727.242 40.4 7.159 29.3 734.401
  3(1766) 157.630 1,644.260 743.040 41.2 7.159 29.3 750.199
  4(1767) 123.089 1,678.801 686.274 38.1 7.159 29.3 693.470
*0.037

注1)本高1,801石8斗9升、新田畑高24石4斗5升4合。
 2)*は見取。
 3)「富田林市域とその周辺の村様子明細帳」(『富田林市史研究紀要』4)により作成。

 次に、図20は、一八世紀後半以降における山中田村と北大伴村の取米の推移を七年移動平均の趨勢線で示したものである。一八世紀後半には、連年検見取が続けられたため、趨勢線は激しい上下の振幅を描いているが、両村とも宝暦末年にかけて取米が急激に減少している。取米の減退は、毛付高の減少と毛付免の低下が原因である。前者は宝暦六年(一七五六)の大洪水により諸引が増加したためであるが、ことに北大伴村の水損は規模が大きく、同年の諸引は村高の五五・二%に相当する三二〇石余に及んだ。後者についても、宝暦初年六〇%を超えていた毛付免が山中田村では明和二年(一七六五)には三五・五%となり、北大伴村でも同元年に二九・九%とより大幅な落ち込みが見られた。その後、山中田村の史料は得られないが、北大伴村では取米が反転して安永年間にピークに達し、天明年間には凶作が打ち続いて再度低落している。

図20 取米の趨勢線(7年移動平均)

 定免制の実施は、山中田村が天明四年(一七八四)、北大伴村が寛政八年(一七九六)からであった。以後、私領に移行することもあったが、若干の検見取や破免検見引の年をはさみつつ、定免が反復された。このため、一九世紀には取米はおおむね固定化し、趨勢線は安定的に推移している。年季が終わるたびに、ごくわずかの増米が加えられるのが通例であったものの、毛付免は、山中田村でほぼ六〇%(高免四五%)、北大伴村ではほぼ五五%(高免四七%)の水準が保たれていた。前掲表55・56における近世初期の取米・毛付免を勘案すると、定免制は年貢増徴という所期の目的を達するものではなかったことが知られる。