膳所藩・神戸藩領の貢租

622 ~ 625

慶安四年(一六五一)、膳所藩主石川忠総の跡を継いだ孫の憲之が伊勢国亀山に移され、本多俊次が亀山から膳所に入部した。翌承応元年における同藩領の錦部郡村々の年貢を示すと、表58のとおりである。ほかにも、膳所藩は同郡龍泉村・廿山村・板持村などの山高を支配し、山年貢を徴していたが、それらは表示を省略してある。本高については、諸引がほとんどないのが特徴であるが、その毛付免は、新家村の五六%から伏見堂村の八九%までかなりの開きが見受けられる。

表58 膳所藩領村々の年貢〔承応1年(1652)〕
村高 諸引 毛付高 取米 毛付免 山高 取米 毛付免 新開高 取米 毛付免 取米合計
佐備 955.895 955.895 573.537 60.0 14.700 9.702 60.0 12.049 3.374 28.0 586.613
彼方 476.000 476.000 376.040 79.0 2.800 1.848 66.0 377.888
甲田 800.810 800.810 676.684 84.5 3.302 2.171 66.0 678.855
新家 202.080 2.000 200.080 112.045 56.0 112.045
伏見堂 297.000 297.000 264.330 89.0 11.760 7.056 60.0 4.000 275.386

注)『河内長野市史』7により作成。

 次に、文化八年(一八一一)の年貢を表示すると、表59のとおりである。第二章第一節で述べたとおり、延宝七年(一六七九)藩主本多康将が領知七万石のうち一万石を実子忠恒に分知し、正徳元年(一七一一)忠恒の子忠統が錦部郡西代村(現河内長野市)に陣屋を設けた。分知のうちに甲田村・新家村・伏見堂村などが含まれたため、膳所藩領は表示の二カ村だけであるが、表58の承応元年と比較すると、佐備村は、本高の毛付免にほとんど変化がないものの、山年貢の租率が引き上げられ、新開田畑が小物成高と表現されて二倍以上の高が打ち出されている。これに対して、彼方村は、承応元年に七九%であった本高の毛付免が九一%にまで上昇している。

表59 膳所藩領村々の年貢〔文化8年(1811)〕
村高 諸引 毛付高 取米 毛付免 山高 取米 毛付免 小物成高 取米 毛付免 取米合計
佐備 955.895 21.908 933.987 569.732 61.0 14.700 9.484 66.0 31.646 13.200 41.7 592.416
彼方 310.112 6.476 303.636 276.309 91.0 276.309

注)表58に同じ。

写真177 西代藩陣屋跡(河内長野市)

 神戸藩は、いま触れたとおり、まず西代藩として立藩され、本多忠統が享保一七年(一七三二)伊勢国神戸に転封されてできた小藩であった。このため、年貢収取の方法は膳所藩とほぼ同じであった。神戸への転封に際して書き上げられた「高物成帳」により、甲田・新家・伏見堂三カ村の同一一年から一六年までの六カ年における取米の平均を算出すると、表60のとおりである。高免しか判明しないが、承応元年膳所藩領のころの租率が継承されていたことが明らかである。神戸藩となってから間もなく、同藩領の村々では、表60の取米を基礎として定免制が導入されたと考えられる。

表60 西代藩領村々の年貢
村名 村高(新開) 享保11~16
(1726~31)
取米平均
高免
甲田村 804.412 697.989 86.8
新家村 202.429 104.783 51.8
(0.349)
伏見堂村 337.461 289.720 85.9
(28.701)
伏山新田 153.692 45.848 63.3
(45.033)

注1)( )内は新開高で、内数。
 2)表58に同じ。

 安永三年(一七七四)における三カ村の年貢は、表61のとおりである。甲田村・伏見堂村の取米は享保年間よりかなり減少し、年貢収納の行き詰まりがうかがわれる。ここでの小物成は、「永荒地」を田畑に起返した「起方」、畑から田に転換した場合の「盛分」などであった。同年は、明和二年(一七六五)に始まった定免一〇年季の最後の年であったが、六月と九月に大風雨に見舞われ、稲・綿・煙草が被害を受けてことごとく凶作となった。このため、甲田村・新家村・伏見堂村など同藩領の錦部郡一二カ村は、「当暮御皆済之儀、何を哉可仕様も無御座」と申し立てて四五〇石の年貢米用捨を訴願したが、一五〇石の「春延米」すなわち延納が認められたにすぎなかった(『河内長野市史』七)。翌四年以後、検見取・定免のいずれが実施されたのかは明らかでないが、同九年からは五年季の定免が行われたことが知られる。この定免では、本高の毛付免が甲田村で八四%と二ポイント引き上げられ、新家村五三%、伏見堂村八〇%と変わらず、年貢収納量の維持が図られた(長野吉年家文書「御定免御請負状」)。

表61 神戸藩領村々の年貢〔安永3年(1774)〕
村高 諸引 毛付高 取米 毛付免 山高 取米 毛付免 小物成高 取米 毛付免 口米 取米合計
甲田 621.536 13.382 608.154 498.686 82.0 14.961 513.647
新家 202.080 8.200 193.880 102.757 53.0 0.349 0.087 25.0 3.085 105.929
伏見堂 297.000 0.926 296.074 236.860 80.0 9.760 5.856 60.0 28.067 16.697 59.5 7.782 267.195

注)表58に同じ。

 神戸藩領の三カ村における戸数・人数の変化は、表62のとおりである。まず戸数は、年次的な低減傾向が明らかであり、宝永二年(一七〇五)と比較すると、文政八年(一八二五)には、甲田村で三九・八%、新家村で二八・九%、伏見堂村で三八・六%の減少率である。同表のうち、高持・無高の内訳が知られる元文四年(一七三九)と文政八年を見ると、戸数の減少は無高層の縮小を伴うものであったことが判明する。零細高持や無高層の多くは、生計の基盤が脆弱で村内に滞留できず、離村を余儀なくされたと考えられ、年貢負担や災害などにより疲弊した農村の姿がうかがわれる。

表62 神戸藩領村々の戸数・人数の推移
年次 甲田村 新家村 伏見堂村
戸数(高持・無高) 人数(指数) 戸数(高持・無高) 人数(指数) 戸数(高持・無高) 人数(指数)
宝永2 93 544 (100) 38 185 (100) 70 330 (100)
享保17 365 (67) 149 (81) 291 (88)
元文3 357 (66) 141 (76) 243 (74)
  4 73 (62・11) 33 (31・2) 60 (53・7)
延享1 335 (62) 134 (72) 235 (71)
寛延3 309 (57) 118 (64) 219 (66)
宝暦6 296 (54) 108 (58) 193 (58)
  12 313 (58) 103 (56) 207 (63)
  13 73 29 54
明和5 319 (59) 101 (55) 197 (60)
安永3 345 (63) 107 (58) 198 (60)
  4 73 23 50
  9 316 (58) 106 (57) 188 (57)
文化13 318 (58) 103 (56) 157 (48)
文政5 326 (60) 100 (54) 163 (49)
  8 56 (48・8) 27 (26・1) 43 (43・0)

注)「富田林市域とその周辺の村様子明細帳」(『富田林市史研究紀要』4)、『河内長野市史』7により作成。

 人数の推移も、おおむね戸数と同じ傾向が認められる。甲田村は、宝永二年から寛延三年(一七五〇)までの半世紀弱の間に四〇%強を減じ、以後横ばい状態になっている。これに対し、新家・伏見堂両村では一貫した減少傾向が見られ、文政五年には半減ないしそれに近い状況に陥っている。