元禄四年(一六九一)における狭山藩領村々の年貢は、表63のとおりである。雑税や高掛物の賦課がなく、本高・新開高の取米と取米一石につき三升の割合の口米が加えられて取米合計が算出されている。本高の毛付免は、錦郡村の八二・八%から嬉村の五七・二%までの大きな差が見受けられる。
村名 | 村高 | 諸引 | 毛付高 | 取米 | 毛付免 | 新開高 | 取米 | 毛付免 | 口米 | 取米合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
石 | 石 | 石 | 石 | % | 石 | 石 | % | 石 | 石 | |
嬉村 | 219.600 | 0.362 | 219.238 | 125.404 | 57.2 | 7.355 | 2.942 | 40.0 | 3.850 | 132.196 |
彼方村 | 97.080 | ― | 97.080 | 69.509 | 71.6 | 2.085 | 71.594 | |||
錦郡村 | 358.480 | 1.164 | 357.316 | 295.858 | 82.8 | 8.875 | 304.733 | |||
廿山村 | 38.350 | ― | 38.350 | 24.736 | 64.5 | 0.067 | 0.027 | 40.0 | 0.743 | 25.506 |
注)『河内長野市史』6により作成。
次に、享和二年(一八〇二)の取米合計は、表64のとおりである。このころは定免が施行され、村々の毛付免は固定していた。嬉・彼方・錦郡三カ村を見ると、毛付免は元禄年間より高位に設定されているが、取米は逆に減退している。これは、元禄四年にはほとんど見られなかった諸引が増加し、毛付高が大幅に減少したためである。諸引の中心は永荒地の発生に求められるので、狭山藩の年貢増徴路線が田畑の荒廃に結びついたものと考えられる。
村名 | 村高 | 取米合計 | 定免租率 |
---|---|---|---|
石 | 石 | ||
嬉村 | 219.600 | 114.545 | 本田76%、本畑38% |
彼方村 | 97.080 | 69.393 | 本田畑90%、起返田70%、起返畑38% |
錦郡村 | 358.480 | 300.871 | 本田畑84% |
廿山村 | 63.149 | 35.790 | 本田63%、本畑28%、山田46%、山畑26% |
錦郡新田 | 51.448 | 24.012 | 田畑45%、悪畑40%、後開26% |
加太新田 | 25.568 | 3.663 | 田方36%、畑方26% |
注1)取米は口米・小物成を含む。
2)近世Ⅰの1、Ⅷの2~6により作成。
旗本甲斐庄知行所の村々では、明和年間から定免制が導入された。村高のうち狭山藩領三五八石四斗八升を除く九九三石五升七合が甲斐庄知行所であった錦郡村では、宝暦五年(一七五五)から明和元年(一七六四)まで、錦郡新田では、宝暦四年から同一三年までの、いずれも過去一〇年間の取米平均をもって、明和二年から一〇年季の定免が実施に移された。
明和七年、錦郡村と同新田の年貢は、表65のとおりである。同年は、五月中旬から八月中旬まで降雨がない未曾有の大旱魃となり、凶作に見舞われた。このため、旱損引が行われている。定免の毛付免は、錦郡村が本高七七・四%、新開四四・三%、同新田が四一・三%であったが、旱損引により、実質上の毛付免は錦郡村で二〇ポイント弱引き下げられたことになる。また、同新田では二八・三ポイントの引き下げとなり、旱魃の被害はさらに大きかったと考えられる。
区分 | 錦郡村 | 錦郡新田 | ||
---|---|---|---|---|
石高 | 取米 | 石高 | 取米 | |
石 | 石 | 石 | 石 | |
本高 | 993.057 | 178.540 | ||
諸引 | ▲13.037 | ▲1.489 | ||
残高 | 980.020 | *693.230 | 177.051 | *73.137 |
新開 | 32.682 | *14.480 | ||
後開 | 7.271 | 2.090 | 2.860 | 0.572 |
見取 | 0.324 | |||
山年貢 | 6.160 | *3.180 | *0.270 | |
旱損引 | ▲117.968 | ▲44.886 | ||
口米 | 17.860 | 0.865 | ||
合計 | 613.196 | 29.958 |
注1)*は定免の取米。
2)『河内長野市史』6により作成。