織田信長が本能寺の変で倒れた後、羽柴秀吉は、山崎の合戦や清洲会議などで頭角を現した。そして、天正一一年(一五八三)四月、賤ケ嶽合戦で柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を高めた。
秀吉は、全国統一事業の拠点を大坂と定め、織田家の重臣であった大坂城主池田信輝を美濃国大垣に、その子之助(ゆきすけ)を岐阜に移して、同年六月二日大坂に入り、ただちに石山本願寺の跡地に大坂城を築き始めた。そして、大坂の周辺には直轄地と近臣の所領を配置し、政権の基礎を固めた。このようにして成立した「幕藩体制」は、当初は大坂を中心とするごく限られた地域におけるものであったが、富田林地方の村々は、このときただちに秀吉の勢力下に置かれたと判断される。
天正一二年一一月の「河内国御給人御蔵入之内より出米目録」(大阪府立中之島図書館所蔵)には、「とんた村四村」として高一〇五九石二斗が書き上げられ、このうちから三六一石八斗六升九合が「出米」と注記されている。とんた村四村とは、中世末、荒芝地を開発して富田林寺内を創建し、二人ずつ年寄を出していた中野・新堂・毛人谷・山中田の四カ村を指すと考えられるが、三六一石余りの出米の意味、さらには富田林寺内の動向などについては明らかでない。また、四カ村の高一〇五九石二斗の範囲についても同様である。ちなみに、正保郷帳の写しと考えられる「河内国一国村高扣帳」によると、村高は、中野村六二七石八斗三升七合、新堂村一六八四石二斗八升七合、毛人谷村六七四石八斗五升七合、山中田村四五三石四斗三升九合であり、四カ村合計では三四四〇石四斗二升になっている(「河内国正保郷帳写」(『枚方市史資料』八))。
寛文九年(一六六九)の「減免訴状」(仮題、富田林勝山家文書)には、次のような記述が見られる。
一 八拾四年以前天正拾四年戌年、一柳次良兵衛殿・早見(速水)庄右衛門殿地子御もり被成候に付、定五拾石之御請米に申請、年寄共支配仕候御事
一 七拾六年以前文禄三年午年、桑原次右衛門殿御検地被成候ニ付、右五拾石之御請米に申請候段御断申上候へ共、御承引無御座、高七拾三石六斗七升に御定被成御納所仕来候御事
すなわち、天正一四年、秀吉の家臣一柳次郎兵衛・速水庄右衛門により「地子御もり(盛)」が行われた結果、地子「請米」が年五〇石と決められ、それまで寺内町を専制的に運営していた年寄八人衆に地子徴収権が認められたという。これは、寺内町のころ認められていた地子免許の特権が剥奪されたことを意味している。富田林は、町方ではなく一般農村として位置付けられ、いま述べた請米の形での地子徴収は、検地実施までの期間における暫定的な措置であった。そして、文禄三年(一五九四)には、奉行桑原治右衛門によって検地が行われ、七三石六斗七升が村高に結ばれた。富田林は「五拾石之御請米に申請候段御断」を申し立てて検地の施行に反対したが、聞き届けられることはなかったのである。
しかし、同年の検地帳は現存せず、文禄五年のそれが残されている(富田林杉山家文書)。いま詳細は知られないが、もし検地の実施が文禄三年で検地帳の交付が同五年であったとすれば、その間に富田林村の抵抗を含む何らかの経緯があったことになる。その検地帳は、表紙に「河州石川郡冨田林 屋敷畠共 文禄五年無神月吉日」とある。記載例は「屋敷六間八間 四拾八坪 源五左衛門」のとおりであり、石高は一切記されていない。屋敷三〇二筆、小屋六筆、「かちや」三筆、畑四三四筆、「荒」一筆、合計七四六筆が書き上げられ、いまだ畑が多く存在することが特徴である。なお、興正寺別院の記載は見られないので、この時点では、別院を除く村内の屋敷・畑が有租地として高に結ばれていたと考えられる。
秀吉が慶長三年(一五九八)八月に没した後、同五年九月関ケ原の戦い、同八年二月徳川家康による江戸開府と、中央政権は大きく変化したが、富田林村は、六五万七四〇〇石の一大名と化した豊臣秀頼の所領として引き継がれた。そのもとで、検地はさらに慶長九年・同一三年と反復された。
文禄五年の検地帳に記載されていなかった別院に関しては、慶長九年の検地帳である「富田林屋敷帳之事」(同上)において、初めて「拾六間半拾九間 参百拾三坪半 御堂」と書き上げられた。また同一三年、代官片桐市正(いちのかみ)を奉行として実施された検地では、文禄検地時の二六・五%に相当する一九石余が打ち出されて、村高は九三石一斗九升八合となった。同年一〇月の「河州石川郡富田林屋敷方御検地帳」(近世Ⅱの四)によると、別院も「屋敷 七畝拾歩 壱石弐升六合七勺 御堂」と高に結ばれている。関ケ原の戦いの後の緊迫した政治状況のなかで豊臣氏により実施された慶長年間の検地を契機に、それまで除地であった興正寺別院までもが有租地に転じたことが知られるのである。