年貢にまつわる伝承

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「古記輯録」(仮題、富田林佐藤家文書)は、村明細帳の体裁をとって、天保一四年(一八四三)に書き上げられたものであるが、これによると、富田林寺内が不入の特権を失ったことについて、次のような記述が見られる。

 富田林寺内には、河内国高屋城主三好山城守をはじめとして、同所畠山高政・大和国信貴城主松永久秀らから数通の許状が出され、織田信長からは元亀元年(一五七〇)に制札、豊臣秀吉からは朱判状が与えられた。ところが、慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いのとき、いま述べた許免の証文類をすべて紛失した。同一三年一〇月二一日には片桐市正を奉行とする検地を受けることとなった。その検地改役人は梅戸平右衛門・安養寺作左衛門の両人であったが、許免証文類を紛失していたため、このときから富田林寺内は有租地になった。上記の朱判・証文は、その後、捜し出して京都の興正寺に納めた。

 慶長五年九月二一日、徳川家康から富田林村に興正寺別院の由緒により朱印状が与えられたのは、寺内の支配に当たっていた年寄八人衆が喜悦するところであった。この朱印状は、関ケ原の戦いのとき、八人衆のうち杉山・倉内・飯田が旗大将に選び出され、戦場で手柄をあげたため、三代備中守の取次で下付されたものである。また、慶長二〇年に大坂夏の陣が行われたときには、年寄八人衆が三〇〇人の軍勢を従えて平野(現大阪市平野区)の陣所に駆けつけ、五月七日、大阪城が落城した際には、人質になっていた三代備中守の奥方を年寄八人衆が敵陣深く攻め込んで救出し、河内国丹南郡郡戸村(現羽曳野市)まで無事に送り届けた。五月二日には、秀忠から富田林村に黒印状が与えられたが、これは文化三年(一八〇六)一二月二二日興正寺に預けた。

 関ケ原の合戦や大坂夏の陣に富田林開発以来の門閥である年寄八人衆が武器を手にして参戦し、その戦功によって家康・秀忠から朱印状や黒印状が与えられたというのは、もとより歴史的事実に反するまったくの作り話である。ただ、慶長一三年(一六〇八)秀頼の代官片桐市正による検地の際、当時の村役人が免租地を証明する古証文を一時的に紛失したため有租地となり、大坂落城後、それらの証文類を捜し出して興正寺に預けたとの話は、慶応元年(一八六五)に作成された「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」(中世九五)にも記されている。

 上記の富田林村が慶長一三年から有租地になったという記述も、前項で述べたところから明らかなように、事実を伝えていないが、諸年次の「村明細帳」(富田林杉山家文書、近世Ⅰの三)にも、そのような虚偽の記述が行われている。すなわち、延享三年(一七四六)の村明細帳には記載が見受けられないが、寛延二年(一七四九)からそれが初めて記されるようになり、以後、明和八年(一七七一)・享和元年(一八〇一)・天保一四年(一八四三)・明治二年(一八六九)の村明細帳にそのまま踏襲されている。諸史料の作成年次から考えて、それは、後に述べるようなきわめて高率の年貢負担を回避したいという願望をこめて、いつのころか歴史的事実に擬して作り出された伝説・伝承の類であり、一八世紀中ごろに史料上に現れるようになったものと考えられる。