領主支配の変遷

633 ~ 635

近世における富田林村の領主支配は、表66のとおりであった。大坂夏の陣以後、幕府領となって代官支配がしばらく続いたが、明暦二年(一六五六)京都所司代牧野親成の所領に変わった。親成が京都所司代に就任したのは承応三年(一六五四)一一月であったが、明暦二年加恩されたのに伴って、下総国関宿の所領が河内国石川・古市、摂津国島上・島下四郡に移されたためである。同人が京都所司代の職を辞した寛文八年(一六六八)、いったんは幕府領に戻った。

表66 領主支配の変遷
元和元(1615) 長谷川藤廣代官所
3(1617) 小堀政一代官所
8(1622) 猶村孫兵衛代官所
寛永5(1628) 小堀政一代官所
10(1633) 松村時直代官所
正保3(1646) 松村時長代官所
明暦2(1656) 京都所司代牧野親成領
寛文8(1668) 長谷川正清代官所
9(1669) 山城国淀藩石川憲之領
正徳元(1711) 山城国淀藩松平(戸田)光煕領
享保3(1718) 山城国淀藩松平乗邑領
8(1723) 下総国佐倉藩松平乗邑領
延享3(1746) 角倉与一預かり所
3(1746) 上倉彦左衛門代官所
寛延2(1749) 萩原藤七郎代官所
宝暦元(1751) 石原清左衛門代官所
6(1756) 大坂城代井上正経領
9(1759) 萩原藤七郎預かり所
10(1760) 角倉与一預かり所
11(1761) 飯塚伊兵衛代官所
13(1763) 角倉与一代官所
安永7(1778) 大坂城代牧野貞長領
寛政3(1791) 木村惣右衛門代官所
12(1800) 河尻甚五郎当分預かり所
12(1800) 篠山十兵衛代官所
文化6(1809) 大岡久之丞代官所
13(1816) 辻甚太郎当分預かり所
13(1816) 石原庄三郎代官所
天保14(1843) 都築金三郎代官所
弘化4(1847) 設楽八三郎代官所
嘉永6(1853) 小堀勝太郎代官所
安政2(1855) 多羅尾久右衛門預かり所
4(1857) 石原清一郎代官所
文久3(1863) 多羅尾民部代官所
慶応3(1867) 内海太次郎預かり所

注)「古記輯録」(仮題・富田林佐藤家文書)、近代Ⅰの1により作成。

 しかし、翌九年石川憲之が伊勢国亀山から山城国淀に転封されたとき、富田林村は同藩領となった。以後、淀藩領の時期が半世紀余り続いたが、藩主は次のとおり変化した。すなわち、宝永三年(一七〇六)義孝、同七年総慶と石川氏が継承した後、正徳元年(一七一一)総慶が備中国松山に移されると、松平(戸田)光煕(みつひろ)が美濃国加納から淀に入部し、享保二年(一七一七)には、光煕の遺領を継いだ光慈(みつちか)が志摩国鳥羽に転封されたため、松平乗邑が伊勢国亀山から淀に移された。

 ところが、同八年乗邑が老中に就任して下総国佐倉に転封されたため、富田林村は淀藩領から佐倉藩領になった。乗邑は、一五年間にわたり実力者として吉宗政権を支えたが、延享二年(一七四五)家重が将軍職を継ぐと、突然老中を罷免された。『徳川実紀』は「その事の子細は、秘して伝へざればしるものなし」と記し(第六編)、『寛政重修諸家譜』は、乗邑が「我意をたつるのはからひ多く、両御所(吉宗・家重)の御旨にかなはず」、勘気を蒙って失脚したと伝えている(新訂版巻一)。佐倉藩主は子乗佑(のりすけ)が後を継いだが、翌三年出羽国山形に転封された。このとき、富田林村はまた幕府領となった。そして、一〇年後の宝暦六年(一七五六)には、大坂城代となった井上正経の所領に転じた。この期間はきわめて短く、同八年正経が京都所司代になり領知を改めて遠江国浜松に移されるまでであった。

 安永七年(一七七八)にも、富田林村は大坂城代牧野貞長の支配になった。同人は、常陸国笠間藩主で、同六年大坂城代になっていたが、翌年陸奥国の領知を河内・和泉・播磨三カ国のうちに移されたとき、富田林村が含まれたのである。天明元年(一七八一)貞長が京都所司代に就任した後も、支配は変わらなかったが、寛政二年(一七九〇)その職を辞すと河内・和泉・播磨三カ国の領知は陸奥国の旧知に移された。その後は、幕府領として代官の支配あるいは預かり支配が幕末まで続いた。

 以上のとおり、富田林村では、適宜淀藩・大坂城代・京都所司代など譜代大名の所領に転じることもあったが、幕府代官支配の時期がもっとも長かった。参考までに、近世を通しての諸支配の期間の比率を図示しておくと、図21のとおりである。それぞれの比率は、幕府領五九%、淀藩領二二%、佐倉藩領九%、京都所司代領八%、大坂城代領二%となっている。

図21 諸支配の期間比率