慶長一三年(一六〇八)片桐市正の検地により、九三石一斗九升八合が富田林村の村高となった。反別は六町六反五畝二一歩で、一反当たりの石盛は一石四斗であった(近世Ⅱの四)。豊臣秀吉が出した文禄三年(一五九四)の「御検地御掟条々」には、「一 屋敷方ハ壱石弐斗たるへき事」と標準斗代が提示されていた(宮川満『太閤検地論』)。中世末に寺内町を形成し、後に文禄検地を請けた村の屋敷の石盛を見ると、交野郡招提村(現枚方市)では一定ではなく八斗七升から一石三斗二升九合までの差が見られ、摂津国島上郡富田村(現高槻市)では一石二斗であった(『枚方市史』七、『高槻市史』一)。これらの事例と比べると、慶長一三年検地の富田林村においては、若干高い石盛が設定されたことになる。
また、文禄あるいは慶長の検地における周辺村々の屋敷の石盛を示すと、表67のとおりである。一石二斗ないし三斗の村が多いが、新堂村の石盛が一石六斗と富田林村のそれを上回っているのが注目される。同村は、天正年間(一五七三~九一)に戦禍を受けた後、東高野街道をはさんで計画的な町割りが行われて村の再建が図られ、村名も千堂村から新堂村に改称されたと伝えられている(南河内郡東部教育会編『郷土史の研究』)。いま、計画的な町割りに関しては「天和改通享保十五年書記 石川郡新堂村百姓屋鋪絵図」(新堂平井家文書)により確認が可能であるが、ほかに史料が得られないので具体的様相は知ることができない。しかし、検地が実施されたとき、新堂村においては、富田林村に劣らぬ形での商工業の早期的展開が見られ、町場的な景観を呈していたと推測することは可能であろう。
郡村名 | 石盛 | 検地 |
---|---|---|
石 | ||
石川郡新堂村 | 1.600 | 慶長13(1608) |
毛人谷村 | 1.300 | 〃 |
喜志村 | 1.300 | 〃 |
山中田村 | 1.200 | 〃 |
北大伴村 | 1.200 | 〃 |
錦部郡錦郡村 | 1.300 | 文禄3(1594) |
板持村 | 1.300 | 〃 |
彼方村 | 1.200 | 〃 |
注)近世Ⅰの二・四・五、Ⅱの一・二・三、Ⅷの一、『富田林市域とその周辺の村様子明細帳』(『富田林市史研究紀要』四)により作成。
なお、上記の富田林村の村高には、屋敷のほかに「上畠」一七石二斗九升(反別一町二反三畝一五歩)が含まれていた。その筆数は一六一筆で、さきに述べた文禄五年の畑四三四筆と比べると大幅に減少しており、一〇年余りの間に宅地化がかなり進んだものと考えられる。
その後、寛文一二年(一六七二)から新畑、翌延宝元年から新屋敷、貞享三年(一六八六)からは藪地が逐次高に結ばれ、石川憲之の支配下にあった元禄一四年(一七〇一)には、改めて検地が行われ、新高として五石七斗四升一合が確定された。その内訳は、石盛が本高と同じく一石四斗の新畑六斗四升六合、新屋敷六斗三升九合、および石盛八斗の藪地四石四斗五升六合であり、本高と合わせた「本新高合」の村高九八石九斗三升九合は、以後幕末まで変わることがなかった。
新畑・新屋敷・藪地の検地が行われ、その高が村高に加えられた一八世紀には、寛延二年(一七四九)の「村指出明細帳」(富田林杉山家文書)に「当村ハ屋敷方、畑方も屋敷ニ御座候」と記されているとおり、宅地化がさらに進展し、町場的な景観が定着していたと考えられる。