すくみ取

637 ~ 641

上記の村高を課税標準とする年貢取米は、表68のとおり、近世初頭から周辺農村には例を見ないきわめて高い租率が適用された。豊臣秀頼の所領であったときの租率が継承されたものと推察されるが、元和元年(一六一五)の租率はすでに八三%であった。その後、租率は上昇を続け、同八年猶村孫兵衛代官支配に転じたときから一〇〇%となった。このため、「村々江余多引退候ヘハ所も次第ニ衰微」したと伝えられている(富田林勝山家文書「減免訴状(仮題)」)。さらに、明暦二年(一六五六)京都所司代牧野親成の所領になると、その翌年から租率は「十一成」すなわち一一〇%にまで達して、頭打ちの状態になった。富田林村は、「此儀迷惑に奉存、佐渡守殿(親成)御代官衆・御奉行衆迄種々御詫言之訴訟仕候ヘ共、御領・私領之替目御座候由被仰聞、御承引無御座」き有様であった。寛文九年(一六六九)にも、年寄八人衆と惣百姓から幕府代官長谷川正清の役所に対して、減免を求める訴願が行われたが、効果はなかった(同上)。

表68 取米の推移(1)
年次 本高(93石1斗9升8合) 新高(5石7斗4升1合) 取米合計 高免 毛付免
毛付高 取米 毛付高 取米
元和1 (1615) 93.198 77.389 77.389 83.0 83.0
  2 (1616) 77.709 77.709 83.4 83.4
  3 (1617) 85.360 85.360 91.6 91.6
  4~7 (1618~21) 91.030 91.030 99.8 99.8
 *8~寛永20 (1622~43) 93.198 93.198 100.0 100.0
明暦1 (1655) 93.200 93.200
  2 (1656) 93.198 93.198
**3~寛文9 (1657~69) 102.518 102.518 110.0 110.0
寛文10~11 (1670~71) 92.228 101.451 101.451 108.9
  12 (1672) 0.646 0.711 102.162
延宝1~貞享2 (1673~85) 1.178 1.296 102.747
貞享3~4 (1686~87) 3.530 2.472 103.923 107.4 108.5
元禄1~13 (1688~1700) 3.637 2.590 104.041
  14 (1701) 5.157 2.937 104.388 105.5 107.2
  15~正徳3 (1702~13) 5.741 2.884 104.335 106.5
正徳4~5 (1714~15) 5.565 2.826 104.277 105.4 106.6
享保1 (1716) 5.392 2.769 104.220 105.3 106.8
  2~4 (1717~19) 92.205 101.425 104.194
  5~10 (1720~25) 2.393 103.818 104.9 106.4
  11 (1726) 2.316 103.741 106.3
  12 (1727) 1.965 103.390 104.5 105.9
  13~15 (1728~30) 1.565 102.990 104.1 105.5
  17~寛保2 (1732~42) 101.426 102.991
寛保3 (1743) 1.851 103.277 104.4 105.8
延享1~2 (1744~45) 1.891 103.317 105.9
  3 (1746) 90.441 4.754 1.565 92.006 93.0 94.9
  4~寛延1 (1747~48) 93.175 91.392 1.822 93.214 94.2 98.1
寛延2 (1749) 93.931 95.753 96.8 100.8
  3 (1750) 95.534 1.744 1.664 97.198 98.2 102.4
宝暦1~3 (1751~53) 97.400 99.064 100.1 104.4
  4~5 (1754~55) 93.012 97.363 2.805 1.823 99.186 100.2 103.5
  6 (1756) 2.698 1.821 99.184 103.6
  7~8 (1757~58) 98.295 1.844 100.139 101.2 104.6
  9 (1759) 92.615 98.789 1.856 100.645 101.7 105.6
  10 (1760) 97.582 99.438 100.5 104.3
  11~明和2 (1761~65) 98.789 100.645 101.7 105.6
明和3~8 (1766~71) 95.932 1.743 97.675 98.7 102.5
安永1~2 (1772~73) 5.050 1.790 97.722 98.8 100.1
  3~6 (1774~77) 1.840 97.772
  7~天明6 (1778~86) 100.265 102.105 103.2 104.5
天明7~8 (1787~88) 92.419 100.053 5.018 1.887 101.940 103.0 104.6

注1)*寛永5・9年、**寛文8年史料欠。
 2)富田林杉山家文書「御免定写」により作成。

 なお、翌一〇年(一六七〇)から「庄屋屋敷引」九斗七升が村高から控除され、毛付高が九二石二斗二升八合となっている。この庄屋屋敷引は延享四年(一七四七)に廃止されるまで続けられた。それ以外の毛付高の変化は、すべて「川欠引」によるものであった。新高に関しては、さきに述べたとおり、寛文一二年から新畑・新屋敷・藪地などが高に結ばれるようになり、元禄一四年(一七〇一)に五石七斗四升一合に高が固定された。しかし、たびたび水損を受けたらしく、川欠引により毛付高が頻繁に変動している。

 明暦三年に始まった本高の毛付免一一〇%は、下総国佐倉藩領であった延享二年まで九〇年弱もの長きにわたって維持された。新高の毛付免も、新畑・新屋敷については一一〇%であり、藪地や起返地だけに五〇%台以下の低い租率が適用された。このため、本高に新高を加えた取米合計でも、高免は一〇四%、毛付免は一〇五%を超える水準にあった。この租率の固定化は、実質上定免制が早期にかつ長期的に実現されたことを意味した。幕府領に転じた延享三年から寛延元年(一七四八)までの三年間は、本高の毛付免が一〇〇%を下回ったが、その後は再び一〇〇%以上の租率が常態と化し、定免制も、宝暦一一年(一七六一)から明和二年(一七六五)までの五年季、翌三年から安永六年(一七七七)までの一二年季、翌七年から天明六年(一七八六)までの一〇年季などと反復されたことが知られる。

 一八世紀末から幕末にかけての取米の推移は、表69のとおりである。史料上、本高・新高の区分がなくなり、両者の高合計を村高とし、これに対する取米が記されている。この時期も、定免制が繰り返し実施され、高免・毛付免とも一〇三%を超える高位にあり、かつ硬直的であった。

表69 取米の推移(2)
年次 村高(98石9斗3升9合) 高免 毛付免
毛付高 取米
寛政3~文化4 (1791~1807) 97.437 102.292 103.4 105.0
文化5~天保3 (1808~32) 102.295
天保4~9 (1833~38) 102.327
  10~13 (1839~42) 98.939 102.372 103.5 103.5
  14 (1843) 102.698 103.8 103.8
弘化1~慶応1 (1844~65) 102.714
慶応2 (1866) 102.717

注)表3に同じ。

 これまで見たように、富田林村では、一〇〇%を超える租率すなわち村高を上回る取米がすでに近世初頭から定着していた。租率一〇〇%の年貢徴収は、史料上「すくみ(竦み)」と称されている。享保年間(一七一六~三五)幕府勘定吟味役を勤めた辻鶴翁(六郎左衛門)による『地方要集録』は、「一反の石盛一石五斗なれば、是を一石五斗取るはすくみ取」とし(『日本農民史料聚粋』一一)、また『黒田故郷物語』には「すくミに取候ても、百姓くつろき過たる村も御座候」(慶長九年三月)と用いられている(『大日本史料』一二の二)。

 このように、すくみ取とは徴租法の一つで、文字どおり体が急に硬直して身動きできなくなるような高率の年貢徴収を意味した。村内が屋敷地で占められていたため、高い租率は、土地生産力と無関係に決められたものであり、後に紹介するとおりの商工業の高度な展開を反映したものにほかならなかった。富田林村が「すくみに取候ても、百姓くつろき過たる村」であったか否かは差し置き、いま述べた村の特性すなわち「当村之儀、皆屋敷ニ而御座候故」、年貢納入はすべて銀納であり、さらに風水害や旱損が発生しても、「未熟米之分下直段に上納」するなどの減免措置は一切認められることがなかった(富田林杉山家文書「村方様子明細帳」)。

 明和八年(一七七一)における徴租法は、表70のとおりであった。この方式は「先打」と称され、かなり以前から定例化していたものであったと考えられる。まず、村民からの徴収に当たっては、検地帳における地目・石盛のいかんを問わず、保有地一坪につき六合の割合で年貢が賦課された。銀納に当たっての石代値段の決定がやや遅れるので、実際の年貢納入高より若干多く賦課・徴収されていたわけであるが、この段階では、村民の負担は毛付高の一三〇%ということになる。いま銀高は明らかでないが、これによって取米・口米・高掛三役などが米に換算して一〇一石余り納入され、村民に払い戻される残米が二二石余りとなっている。

表70 年貢の徴収と納入〔明和8年(1771)〕
区分
徴収(20,651坪半) 123.909
納入 101.649
 取米 97.675
 口米 3.717
 高掛り三役 0.257
差引 22.260

注)富田林仲村家文書「卯年(明細)」により作成。

 なお、表70からもうかがい知られるように、年貢負担としては、本年貢のほかに、種々の付加税・雑税・夫役・高掛物があった。しかし、表68・69においては煩瑣に過ぎるため表示を省略したことを断っておく(第二章第四節参照)。