寛永年間の住民構成

641 ~ 644

寛永二一年(一六四四)七月「河州石川郡之内冨田林家数人数万改帳」(近世Ⅰの九)は、同年幕府が作成を命じた代官所限りの「人数帳」の控えと考えられ、当時の村落状況を伝える信憑性の高い史料である(脇田修「在郷町の形成と発展」(『ヒストリア』一九・二一)、以下同じ)。この史料の記載例は、次のとおりである。

 一[中(挿入)]家 五間ニ弐間半 わらや              [商人(挿入)]加兵衛印

   此人数四人

      加兵衛年四十五  女房年四十  男子市兵衛年十六

      男子仁兵衛年十三

 このように、家には上・中・下・隠居家・借家などの注記があるほか、人名には職業を示す肩書きが見受けられ、家族数・家族構成員が書き上げられている。また、記載例の村民の場合は該当しないが、奉公人(下男・下女)を抱えていたり、牛馬や付属家屋を所有していれば、それらが記されている。なお、肩書きからは、商人の場合はその内容が明らかでないが、職人については鍛冶屋・紺屋・樽屋などの職種の記載が行われている。このころ、商人や職人がすべて農業から分離された存在であったとは思えないが、一応、史料上の肩書きに従って住民の階層構成を示すと、表71のとおりである。表示のように、三つのグループに大別され、早期的な階層分化がうかがい知られる。

表71 階層構成〔寛永21年(1644)〕
区分 戸数 肩書 下男 下女 柴屋 小屋 灰屋 酒部屋
商人 職人 なし
〔Ⅰ〕 36 22 1 13 46 89 13 2 45 6 7 7
〔Ⅱ〕 35 17 6 12 15 31 4 6 5 6 6 1
91 38 16 37 5 3 8 2 2 1
隠居家 16 2 3 11 4 12
〔Ⅲ〕 借家 98 7 91 1 4
その他 9 9
合計 285 79 33 173 71 139 17 16 50 14 15 2 7

注)脇田修「在郷町の形成と発展」(『ヒストリア』19)。

写真179 寛永21年「家数人数万改帳」 (杉山家文書)

 三つの階層のうちまず〔Ⅰ〕は、家が上と評価されている三六戸である。村の主導的・指導的勢力を形成し、下男・下女の雇用や牛・蔵の所有などの多さに特徴が認められる。ここには、富裕な商人、肩書きのない門閥の年寄八人衆である村役人層、および上層農民が含まれ、職人は紺屋を営む一人だけである。なお、村役人層は商業に携わっていた可能性が高いと考えられる。

 農業を行う村民にとっては、検地に伴う村切りにより旧寺内町の区域だけが富田林村とされたため、保有する田畑は他村への出作地ということになった。やや時代は下るが、周辺農村における出作高は、表72のとおり、寛文一〇年(一六七〇)一〇四〇石であり、延享三年(一七四六)には、さらに土地集積が進んで一二八二石にも達した。また、持山も中野・新堂・毛人谷・山中田・甲田などの村々に分散していた。この階層の農民は、大量の出作地を持ち、地主経営を展開したり、あるいは下男・下女を含む雇用労働や牛を駆使して手作経営を行っていたと考えられる。

表72 出作高
村名 寛文10(1670) 延享3(1746)
新堂 448 430
毛人谷 339 620
中野 180 100
山中田 48 90
喜志 13 16
新家 6 6
北大伴 3
南大伴 3
板持 20
合計 1,040 1,282

注)近世Ⅳの1、富田林杉山家文書「明細帳」により作成。

 〔Ⅱ〕は、家が中または下と隠居家の者からなる中堅的な階層である。戸数は一四二戸と全体のほぼ五〇%を占めるが、ここには、商人の七二%、職人の七五%のほか肩書きのない農民の三五%が含まれている。農業は、家族労働力による手作経営が基本をなしていたと推定される。なお、隠居家は、母屋に付属した隠退者のものではなく、分家としての独立した経営を意味している。

 〔Ⅲ〕は、九八戸にものぼる借家層を中心とする下層住民である。商人は含まれず、七戸の職人のほかは肩書きがない者で占められ、戸数の構成比は三七・五%である。もとより、牛・馬・付属家屋の所有は皆無である。この階層は、主として〔Ⅰ〕・〔Ⅱ〕の経営のもとで小作や日雇いなどに従事して日々を送り、その生計は零細を極めたと推測されるが、流入・流出などの社会増減がもっとも激しい存在でもあった。