戸数・人口の推移

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近世に入ると、寺内町のころ残されていた空き地や畑は急速に宅地化されたと考えられる。戸数・人口の推移を見ると、表73のとおりである。戸数に関して、『富田林市誌』や『富田林寺内町』(『歴史的町並み保全計画調査報告書』)などでは、軒数と竃数に区分し、近世を通じて家屋の軒数はほとんど増加しなかったという結論が示されている。しかし、年次ごとに依拠する史料の性格が異なり、軒数・竃数のいずれであるのかが判明しない場合があるため、表73においては、戸数として表示してある。まずその戸数については、延享三年(一七四六)と寛延二年(一七四九)の村明細帳に記載された「家数」に問題が残されている。人口を勘案すると、その数字は竃数ではなく、文字どおりの家数であったと考えざるを得ない。この両年の数字を別にすれば、幕末期には若干落ち込んでいるが、戸数は増加傾向にあったということがいえる。その戸数増加は、寛永二一年(一六四四)における〔Ⅲ〕階層すなわち無高の借家層の膨張によるものであった。同年の借家層は九八戸であったが、天保一四年(一八四三)には四二四戸で全体の八二%、明治二年(一八六九)には三三七戸で同七一%が無高によって占められていた。

表73 富田林村の戸数・人口
年次 戸数 人口
文禄5(1596) 205
慶長10(1605) 245
寛永21(1644) 285 1,222
正保3(1646) 372
慶安4(1651) 427 1,679
寛文8(1668) 344
貞享3(1686) 413 1,647
延享3(1746) 252 2,020
寛延2(1749) 255 2,001
明和8(1771) 503 1,830
天保14(1843) 517
明治2(1869) 472

注)富田林杉山家文書「村明細帳」、脇田修「寺内町の構造と展開」(『史林』41の1)。

 人口は、当然のこととしていま述べた戸数の趨勢に連動して変化したと考えられる。表示の範囲内からは、時系列的な推移をうかがうことは困難であるが、寛永二一年の一二二二人から延享三年の二〇二〇人までの大きな差が見られた。人口増減の主因は、借家層の頻繁な流入・流出さらには欠落などに求められるが、大量の下層住民が村内に滞留することが可能であったのは、富田林村の経済的基盤を直截に示すものである。