検地帳や名寄帳には、一筆ごとに土地を保有する農民が登録されているが、いま寛永年間の住民構成を見た「富田林家数人数万改帳」においては、寺内町を創設した年寄八人衆の系譜を引く年寄一〇人に限り、石高が記載されている。
それらを表示すると、表74のとおりである。石高の合計は、村高九三石一斗九升八合とはわずかに合致しないものの、それは村高の分割記載にほかならず、年貢納入の責任者であることを示している。さきに触れたとおり、天正一四年(一五八六)の「地子もり」のときに確認された寺内町以来の年寄八人衆の年貢徴収権ないしは地子徴収権の特権が、いまだに持続されていたことを意味すると考えられる。「廻り庄屋」が置かれて八人衆が輪番で庄屋を勤め、年貢徴収も村会所を通じて行われるようになるのは、慶安元年(一六四八)のことであった(脇田修、前掲論文、以下同じ)。
名前 | 石高 | 家 |
---|---|---|
石 | ||
九右衛門 | 6.850 | 中 |
徳右衛門 | 6.712 | 上 |
加右衛門 | 10.100 | 〃 |
太兵衛 | 10.550 | 〃 |
小右衛門 | 9.700 | 〃 |
二郎左衛門 | 12.700 | 〃 |
八左衛門 | 12.500 | 〃 |
仁兵衛 | 9.250 | 〃 |
甚介 | 8.100 | 〃 |
九左衛門 | 6.730 | 〃 |
合計 | 93.192 |
注)近世Ⅰの九により作成。
このような、近世初頭に継承された寺内町以来の「年寄差配」の体制は、遺制でしかなかった。このため、住民の反抗を招いたのは当然のことであった。まず慶長一五年(一六一〇)、具体的な内容を知ることはできないが、四人の住民が年寄地下中と抗争して入牢を命ぜられ、小堀政一代官支配のときにも、一三人の住民が徒党を組んで年寄衆と抗争し、「所之作法」を破るできごとが発生した。前掲表66のとおり、小堀政一は元和三年(一六一七)から同七年までと寛永五年(一六二八)から同九年までの二度富田林村の支配に当たっていたが、後者の事件がどの時期に起きたのかは明らかでない。
また、明暦二年(一六五六)には、銀札流通をめぐる争いが起きた。これは、寛永一五年興正寺別院が再興されたことに端を発する。再興は惣門徒の寄進によるものであったが、多額の借銀が導入されたと考えられる。その返済に当たって、年寄衆が「借銀之利足成共たすかり申様にと存、札づかい」を行ったところ、新興勢力として台頭してきた六人衆が異議を申し立てて年寄衆と抗争したのである。八人衆の支配が転機にあったことをうかがい知られるが、六人衆のうち、寛永二一年の「冨田林家数人数万改帳」に現れている者を示すと、表75のとおりである。おおむね中以上の屋敷を持つ商人・職人により占められている。抗争の首謀者は商人万介であったが、同人は、上と評価された屋敷と二つの蔵を所有して三人の奉公人を抱える上層の、前掲表71では〔I〕階層に属する商人であった。
名前 | 家 | 年齢 | 下男 | 下女 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
商人万介 | 上 | 47 | 1 | 2 | 蔵2 |
鍛冶屋甚左衛門 | 中 | 38 | 2 | 1 | 馬1 |
商人加兵衛 | 中 | 45 | |||
市兵衛 | 中 | 37 | 1 | 牛1 | |
商人九右衛門 | 中 | 27 | 1 | 1 | 柴屋1 |
下 | 47 | 1 | 馬1 |
注)脇田修「寺内町の構造と展開」(『史林』41の1)。
八人衆の差配体制はその後も続いたが、寛延二年(一七四九)には、年寄八人のうち二人は絶株となり、残る六人のうちから年番の一人が出て庄屋を勤めていた。年番庄屋の給米は四石五升で、住民の負担は高掛かりであった。なお、町場としての自治体制を支える会所守給米五石、歩行役給米四石、火の用心夜番給米三石六斗、同鉄棒引給銀一夜当たり銀四分五厘などは家持棟役掛かりで、借家層を除く住民の負担であった(富田林杉山家文書「富田林村指出明細帳」)。