寺内町以来の八人衆差配体制は、以下紹介する安永二年(一七七三)の村方騒動により崩壊を余儀なくされた。すなわち、同年三月、百姓惣代ら七人が庄屋・年寄四人を相手取り、「乍恐書付以御訴訟申上候」(富田林仲村家文書)を支配代官角倉与一の役所に提出したのである。訴状は、以下のような内容の箇条を列挙し、このように村役人が「心儘之取計致被呉候故、末々百姓迄困窮仕候様ニ相成、難儀千万」であるとして、村役人を召し出して吟味するよう求めたものであった。
(1) 年貢算用書は、どの村でも村民に開示されているが、当村では村役人がそれを拒否している。
(2) 年貢上納銀は、「先打」により毎年過銀が出るように割り付けられている(前掲表70参照)。年貢皆済後に過銀を払い戻す際、利息をつけるべきであるのに、庄屋は利息を負担せずに、年貢皆済までの期間自儘に運用を図っている。
(3) 近年、村入用が増大している。その割り付けは、周辺の村々では高割が一般的であるが、当村においては村役人が先年からの仕来であるとして、「表向見付ニ懸ケ不申候所、自分之贔屓を以、身上不相応之軽重ヲ致」している。
(4) 村方夫代入用の割り付けも村役人の心儘に行われ、住民にとっては、入用の内訳や割り付け方式などがきわめて不透明である。
(5) 村入用の増大により小百姓まで過分の負担を強いられている。やむを得ない出費もあるが、村役人には村方を厭う気持ちがまったく見受けられない。
(6) 村会所は、敷地年貢や修復そのほかの諸入用が住民の負担になっている。会所屋敷のなかに葡萄の棚があり、先年は村入用の計算のとき、葡萄の売り払い代銀が村方に拠出されていた。ところが、最近は村役人から出銀されていない。銀高としては少額であるが、筋の立たないことである。
(7) 村役人が役用で出向くときの賄入用は、京都行きが一日につき銀八匁、大坂行きが同六匁と定められている。
(8) 近年は、金銀出入をはじめとしていかなる訴願でも、庄屋・年寄が付き添って出訴しないと取り上げられない。そのたびに前条のような高い賄入用の負担を強いるのは、村役人が村方を少しも厭わないからである。
(9) 小高の村であるため、従来は、村役人のわがままな取りさばきにも訴願するようなことはなかった。しかし、近年彼らが「役儀者銘々其家ニ付き申候様ニ存、諸事心儘ニ致、何事ニ而も末々百姓へ者一向何事も聞せ不申、諸事権威強ク振舞」っているのは問題である。
(10) 明和五年(一七六八)、興正寺別院が庄屋・年寄を察度(非難)するできごとがあった。その後、この一件は煩瑣な経緯をたどったようであるが、その内容は百姓に一切知らされていない。したがって、論中の入用銀は庄屋・年寄が負担すべきであるのに、多額であることを口実に、半分は村方に掛けられ、半分は別院の祠堂銀で賄われた。
(11) 庄屋給米は、村高の一%が一般的であるのに、村高が一〇〇石に満たない当村で四石五升も支給されているのは不当である。
角倉与一役所は、早速吟味を行い、同年五月二四日裁許を申し渡して、庄屋・年寄四人に「旁以不取締り之取計ひ」があったとして退役を命じた。その理由は、毎年、村民に年貢請取通いを渡していないこと、村高のうち、土居・道・別院敷地・会所敷地・非人番小屋敷地・煙亡(おんぼう)高など五五一坪分が「村被衣高(かずきだか)」となり、その年貢が村方の弁納になっているのに、証拠書物が一切存在しないこと、また、村民のなかには自分の持高を覚えていない者があり、前年の宗門帳に記載された銘々の持高も不正確で、集計すると村高に一一石七斗余りも不足していること、などであった。そして、翌月一五日までに後任の庄屋・年寄を選出して願い出るよう指示が行われた(同「申渡」)。