二株分離

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庄屋・年寄の選出に関する相談は、高持の村民により行われたが、彼らが前庄屋・年寄を支持する「古役方」と、年寄八人衆による権威的な村運営に反発する「願方」の二派に分かれて激しく対立したため、妥協点を見出して村役人の選出を行うことは、とうてい不可能であった。

 結局、古役方は七九人の連署をもって前庄屋・年寄の帰役を、願方は七四人の連署をもって、株分けのうえ別途庄屋・年寄を立てたいと出願した。角倉与一役所は「一村二株ニ相成候而者如何ニ付、和融候様」に呼びかけて説得を試みたが、効果はまったくなかった。このため、同年八月二〇日株分けが承認されるに至ったが、そのとき役所から提示された「冨田林村跡庄屋・年寄相極ニ付、以来取締り之儀申渡覚」(近世Ⅲの二〇)の概要は、以下のとおりであった。

(1) 年貢割付書は、古役方に本紙、願方には別紙写を役所から渡すので、村民に開示すること。

(2) 宗門帳・五人組帳・仕置請書帳・検見内見帳などは、古役方・願方の別帳とはせず、双方合帳にして提出すること。

(3) 村入用の削減に努め、高割で徴収すること。また、村入用帳は村民に見届けさせて印形を取り、役所に提出すること。

(4) 会所敷地・非人番小屋敷地・煙亡高などの年貢及び高役懸り米銀は、従来どおり惣村弁納とすること。

(5) 村民の保有地のうち、土居引・道引などと名目を立て年貢を村弁納にしているのは不当である。実際に小道になっている部分は別として、今後は、土地保有者が年貢諸役を負担すること。

(6) 興正寺別院については、往古からの寺法・由緒を守るようにし、敷地年貢は従来どおり惣村弁納とする。もっとも、諸用は古役方が勤めること。

(7) 前年の宗門帳によると、浄谷寺の檀家は古役方八人、願方一三人であり、妙慶寺のそれは古役方二三人、願方七人である。年貢関係や触れなどに関する差配は、檀家の多い方が行うことを原則とする。したがって、浄谷寺は願方、妙慶寺は古役方が差配すること。

(8) 願方百姓が申し立てていた村役人の賄入用節減の件は、相対のうえ実現に向けて努力すること。

(9) 訴願は、庄屋・年寄・百姓惣代・組頭らが立ち会ってできるだけ事前に下済すること。それが困難なときは、村役人一人付添のうえ出訴すること。

(10) 無高で借家に住んでいる村民の帰属は、家主がいずれの株に属しているかによって決めること。

 このようにして、富田林村は古役方(古株)と願方(新株)に分離したが、古株に所属することとなった年寄八人衆は、時代の流れとともに退転が目立ち、櫛の歯が欠けたようになった。すなわち、享和元年(一八〇一)には二人が絶株、三人が休株となり、残る三人が年番で庄屋を勤め、さらに天保一四年(一八四三)には絶株二人、休株四人で、二人が残るだけであった(富田林杉山家文書「村方様子明細帳」、近世Ⅰの三)。