嘉永五年の惑乱と合株

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これまで述べたとおり、近世初期から安永二年(一七七三)の訴願までは、八人衆を中心とする門閥層と新興住民との対立が基調をなしていた。一方、天保一五年(一八四四)の村方騒動では、高持村民が古株・新株の区別なく惣百姓と称して、村役人の村政運営上の問題点を指摘し、罷免に追い込んだ。

 しかし、村方騒動はその後も止むことがなかった。嘉永五年(一八五二)の年初には小前層の惑乱が発生したのである(近世Ⅲの二二)。小前とは、本来、小農民すなわち高持百姓一般の意味であるが、幕末期には、無高の借家層をも含めて零細経営の住民を総称するようになった。多数を占める無高借家層が、諸物価高騰による生活困窮を背景として、村方騒動にかかわるようになったものと考えられる。

 同年の彼らの不穏な動きに関して、具体的様相は知られないが、その風聞に接した支配代官設楽(したら)八三郎の役所は、二月六日、丹南郡伊賀村(現羽曳野市)庄屋と同郡岡村(現藤井寺市)庄屋に取り調べを命じた。

 早速、上記の庄屋二人によって取り調べが行われるとともに、小前層に対する説得工作も村内での最有力住民である杉山長左衛門・仲村徳兵衛を介して進められた。その結果、このときも庄屋・年寄は退役となり、古株・新株とも跡庄屋・年寄が一人ずつ選出された。そして、同月一五日には「規定之事」が作成されて、次のような諸事取締が確認された。

(1) 年貢勘定の節は、庄屋・年寄・百姓代が立ち会うこと。

(2) 村入用の勘定は、当番の惣代宅において庄屋・年寄立会のうえ行うこと。

(3) 貯夫食米は、年寄二人が取り締まりに当たること。

(4) 訴願について、村役人に届け出があれば、事前に下済するよう努めること。

(5) 庄屋は、これまで古株・新株二人勤めであったが、今後は一人隔年勤めとし、残る一人は年寄の心得をもって勤めること。

(6) この度の惑乱で予想外の入用がかかったので、不益の村入用を省き、倹約に努めること。

 これまでの村方騒動のときとさほど代わりばえのしない事項が並んでいるが、嘉永五年の惑乱は、二株分離が「故障之基」となって発生したものであるとの認識を村民に持たせた。また、二株であることによる村入用の増大も、看過できない問題であった。このため、代官役所からの示唆もあったらしく、同年閏二月には、「往古ニ復し、一村一躰」とする合株の出願が行われ、古株・新株の区分は廃止された(近世Ⅲの二三)。

写真180 嘉永5年 規定之事 (杉山家文書「惑乱一件書類」)