諸営業の展開

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在郷町とは、近世農村に発生した小都市集落を指す。富田林は、農村として位置付けられていたが、中世末に寺内町として町場化していたため、近世前期から在郷町として発展し、地域的商品流通さらには遠隔地商業の中心地としての機能を果たした。

 表76は、文禄年間から元禄年間にかけての商人および職人の推移を示したものである(脇田修「寺内町の構造と展開」(『史林』四一の一)、水本邦彦「畿内在郷町発展の画期について」(『史林』五六の二)、以下同じ)。依拠した史料は、文禄五年(一五九六)と慶長九年(一六〇四)が「検地帳」、寛永二一年(一六四四)が「家数人数万改帳」、明暦三年(一六五七)が「納所帳」、寛文八年(一六六八)が「五人組手形帳」、貞享三年(一六八六)が「宗旨御改帳」、元禄六年(一六九三)が「年貢算用帳」と、年次によって異なる。このため、統一的な肩書きの記載方式が期待できず、また明暦三年と元禄六年は、年貢名請人に限定され、村民のすべてを網羅していないし、寛文八年についても史料が一部欠落している可能性がある。さらに、屋号から営業内容が知られないことは当然のことであるが、肩書きが屋号と化していて職種を意味しなかったり、肩書き・屋号はないが商工業に携わっている場合も想定されるなどの問題がある。したがって、ここでは商工業のごく大まかな動向をうかがうにとどまることを断っておかねばならない。

表76 商人・職人の概要
職種 文禄5
(一五九六)
慶長9
(一六〇四)
寛永21
(一六四四)
明暦3
(一六五七)
寛文8
(一六六八)
貞享3
(一六八六)
元禄6
(一六九三)
鍛冶 8 6 6 6 10 10 7
目切り 1 1
いかき 1 1 1
鉄砲 2
鍋屋 2 2 1 1
かきや 1 2
火桶屋 1
1
晒屋 1 1 1 2 1 1
紺屋 20 15 5 3 8 3 3
布屋 1 4 4 7 11
機屋 1
木綿屋 1 3 4 3 3
皿屋 1
火鉢屋 1
瓦屋 1 1 1
石屋 1
研屋 2
屋根葺 1 1
大工 6 1 2 2 2
木挽 1 1
畳屋 1
紙屋 1 4
笠屋 1 1 1 2 1
傘屋 2
車屋 2 2 2 1 1
桶屋 5 1 4 1
樽屋 7 2 1 5 5 5
笊屋 1 3
籠屋 1 1 1
風呂屋 1 1
木屋 1 2 1 2
柄屋 2 1 1
竹屋 2 1 3
1 3 1 6
編笠 1 1
筵屋 2 1 3
箱屋 1 1 1
筆屋 1
炭屋 2 1
飴屋 3 1 2
小物屋 2
小間物屋 2 1 1 1
味噌屋 1 1 2
魚屋 1 1
酒屋 1 1
杜氏 1
米屋 3 4 4 6
麹屋 1 1 2
油屋 1 1 1 2 3
3 1 3 3 1 1
塩屋 2 2 2 1
豆腐 1 2 1 2
ところてん 1 1
素麺 1 2
餅屋 1 1
饅頭 1 1 2
薬屋 2
青屋 2
茶屋 1 1 1
髪結 4 5 4 6 2
くらや 1
井戸掘 1
薬師 3 8 2 3 1 1
1 1 1
2 7 13 8
3 4
屋号 2 6 80 23 29 38 38
その他 14 10 5 6 7 1 2
合計 84 63 118 91 149 117 125

注)水本邦彦「畿内在郷町発展の画期について」(『史林』56の2)。表示を一部改めた。

 まず、文禄五年および慶長九年には、富田林村は、すでに周辺農村の経済的中心地になっていたと考えられるが、紺屋・鍛冶・大工・桶屋・樽屋そのほかの職人が数多く存在し、商人の数を上回っている。寛永二一年については、前節において住民構成を見たが、戸数二八五戸のうち商人七九戸、職人三三戸で(前節表71参照)、両者の比率が逆転している。この間に、富田林村は、商品経済の発展がいまだ未熟で生産・流通両部門が分化せず、職人的存在が優位にあった段階から脱して、商業中心の町場に移行したことが知られる。このような現象は、明暦三年・寛文八年に一層明確となっている。すなわち、職種がきわめて多様化するなかで、紺屋・大工などの職人が減少し、布屋・木綿屋・米屋・馬方稼ぎ、さらには日用雑貨を扱う小商人などが著しい増加を示している。しかし、町場としての膨張・発展はこのころがピークであったらしく、貞享三年・元禄六年には、一転して停滞的な様相を呈している。