貞享三年の「他国商い」

659 ~ 661

貞享三年(一六八六)の「宗旨御改帳」(富田林杉山家文書)には、村民の他出に関して簡単な注記が見受けられる。いまこれにより、遠隔地商業の概要を見ると、表77のとおりである(脇田修「在郷町の形成と発展―河内国石川郡富田林を中心に―」(下)(『ヒストリア』二一)、以下同じ)。

表77 他国商い〔貞享3年(1686)〕
地名 家持 借家
近江国 12 木綿商(黒山屋),木綿商(山),商(布屋),商(同上),商(同上),商(同上),商(木綿屋),商(同上),商(水分屋),商(古屋敷屋),商(了意ノ),商 1
紀伊国 10 商(大井屋),商(大ケ塚屋),商(鍛冶),商(髪結),商(佐渡屋),商(同上),商(同上),商(小麦),商(城口),商 5 商(紺屋),商,商,商,小間物商
熊野 6 商(紺屋),商(晒屋),商(米屋),商(山),商(山か屋),商(晒明寺屋) 3 商,小間物商,小間物商
江戸 6 商(坂田屋),商(樽屋),商,商,商,馬方稼(馬ノ)
長崎 2 商(布屋),商
越前国 2 商(山),布買(米屋)
信濃国 1 商(西ノ浦),
不明 1
合計 39 10

注1)( )内は屋号または肩書き,数字は延べ数である。
 2)脇田修「在郷町の形成と発展(下)―河内国石川郡富田林を中心に―」(『ヒストリア』21)。

 近江国については、史料上「木綿商い」と明記されているのは二人だけであるが、「江州へ商ニ参候」とあっても布屋・木綿屋の屋号を持つ者がきわめて多い。同国へは、主として木綿の商売に出向いていたと考えられる。

写真181 貞享3年「宗旨御改帳」(杉山家文書)

 紀伊国・熊野方面への商いは、借家層も八人を数え、地域別にはもっとも多くの村民が参加している。彼らは、東高野街道を南下して紀見峠を越え、紀伊国伊都郡橋本町に至り、そこから、紀ノ川を下って和歌山に向かったり、高野山を経て牟婁郡の熊野方面に出たりしたのであろう。商売の内容は明らかでないが、注記・肩書きなどから推定すると、近江国の場合とはいささか趣を異にしたようである。すなわち、いま述べたとおり借家層が多いうえ、そのうち紀伊国で一人、熊野で二人に「小間物商」との記載があり、また鍛冶・髪結・紺屋(こんや)・晒屋(さらしや)などの肩書きが見られるところから、行商に携わる小規模な商人が多数を占めていたと考えられる。

 そのほか、江戸には六人が出向き、長崎・越前国各二人、信濃国・不明各一人となっている。しかし、注記があるのは江戸での「馬方稼」、越前国での米屋の「布買」だけであり、多くは何の商いに他出したかを知ることができない。

 このような遠隔地商業は、一家の主が商いに赴くことはまれで、男子や使用人が出向いていた。なかには、一家の三兄弟が近江国・江戸・長崎に分かれて出かけたり、佐渡屋の兄弟三人が同時期に紀伊国に行くなどの事例も見受けられる。また、布屋の場合は、次男が長崎に行き、帰国後長男・使用人と三人で近江国に向かっている。

 表77に見られる広範で活発な富田林村商人の活動は、近世初頭から展開されていたと考えられるが、その評価については、議論が分かれている。一つは、いわゆる「元禄期」の経済的繁栄を支えた在郷町の姿と見るものであり(脇田修、前掲論文)、いま一つは、寛文期の活発な遠隔地取引の実態としてとらえ、元禄期における全国的市場の形成、中央市場としての大坂の地位確立に伴い、ほどなくその多くが消滅を余儀なくされるとする見解である(水本邦彦、前掲論文)。

 いずれにせよ、近世後期に入ると、大坂周辺地域の在郷町のなかで富田林村を特徴付けた代表的な商工業は、同表にある木綿商いであり、いま一つが酒造業ということになる。