富田林村における酒造業の展開については、現在のところその濫觴を知ることはできない。前掲の表76では、屋号・肩書きから商工業を概観するという方法をとっていたので、酒造業の動向をうかがうことは不可能であった。
酒造業は、貢租米の商品化と密接な関係を持っていた。このため、幕府は近世初頭から酒造業の掌握を意図して、明暦三年(一六五七)の酒造株設定に始まり、寛文六年(一六六六)・延宝八年(一六八〇)・元禄一〇年(一六九七)にそれぞれ株改めを行って、酒造株体制の確立を図った。ことに元禄一〇年、全国的規模で実施された株改めは、酒造諸道具の極印(きわめいん)、酒造石高・販売価格の届出と酒値段の五割に相当する運上銀の賦課、廃業・酒造道具売却の届出、酒造道具破損・修理の届出、変酒の届出などの内容を備え、近世前期における一連の酒造政策を集大成したものであった(柚木学『近世灘酒経済史』)。
富田林村における酒造家が明らかになるのは、同年の株改めに際して各酒造家から徴された、本高米、酒造道具などを書き上げた一札によってである(近世Ⅴの2の一)。いま、それによって寛文年間から元禄年間にかけての酒造家の動向を見ると、表78のとおりである。これは、明暦三年の酒造株設定から元禄一〇年までの四〇年間における富田林村酒造家の変化を示すものであるといえる。その間の酒造株の移動はかなり頻繁であり、休株の譲渡、あるいはそれを年季を限って借株としたうえ譲渡という事例が多い。なお、「本高米」は明暦三年酒造株設定時の株高と考えられるが、この株高は酒造規模を規定するものではなく、たんに酒造業の営業権を保証するものと化していた。
一見したところ、他村からの株取得が散見される一方、他村への株放出は皆無であるから、酒造業は膨張傾向をたどったと思われるかもしれない。しかし、休株を除く酒造家数の年次的変化を見ると、寛文二年まで五人、同三年から一〇年まで六人、同一一年七人、同一二年から延宝二年まで六人、同三・四年五人、同五年から七年まで六人、同八年七人、翌天和元年五人、同二年から貞享元年(一六八四)まで四人、同二・三年五人、同四年から元禄五年まで六人、同六年以降五人と推移している。天和年間に休株が集中したため、その後は、むしろ停滞的な状況にあったのである。