元禄酒造株体制下の沈滞

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元禄一〇年(一六九七)以後における酒造業の動向は、表79のとおりである。まず、表示の正徳五年(一七一五)までの間における酒造家の変化について見ておこう。

表79 元禄~正徳年間の酒造業
人名 古来より造高 酒造米高 備考
元禄10(1697) 元禄11(1698) 元禄16(1703) 宝永4(1707) 正徳5(1715)
八兵衛 159 96 96 35 35 32
甚左衛門 153 80 80 30 30 27
長左衛門 30 104 104 35 35 35 親四郎左衛門株
助左衛門 50 96 30 19 20 32 伯父利兵衛株,元禄12年譲渡
元右衛門 94 64 64 29 12 親九兵衛株,宝永5年から休株
六郎兵衛 (56) (5) 4 2 中野村次郎左衛門株,元禄10年出造,宝永元年譲渡
甚右衛門 (74) 喜志村与左衛門株,正徳元年から休株,同5年譲渡
合計 486 440 374 148 136 128

注)近世Ⅴの2の五,「仕上証文之事」「河州郷方酒造米石高之帳」「酒造石高并御運上銀高之帳」により作成。

 前掲表78において元禄一〇年に休株であった者はすべて姿を消している。すなわち、三右衛門株は元禄一二年高安郡大窪村(現八尾市)へ貸株、利兵衛株も同一三年高安郡大竹村(同上)へ貸株として放出され、七兵衛株は同一五年高安郡水越村(同上)へ、太郎兵衛株は同一一年隣村の新堂村へ譲渡された。逆に、表79における新規参入は、六郎兵衛と甚右衛門の二人である。同表備考欄の記載のとおり、前者は宝永元年(一七〇四)石川郡中野村から酒造株を譲り受け、後者は正徳五年一二月喜志村から株を購入して、翌享保元年から営業を開始している。

 酒造業の動向を見ると、表79においては、表78の本高米(株高)が「古来ゟ造高」という用語で示されている。元禄一〇年の株改めのときには、酒値段の五割の運上銀を取り立てることに重点が置かれ、いまだ減醸令を伴っていなかったので、同年および翌一一年の酒造米高は株高とは一切関連がなく、株の営業特権に基づいて、各酒造家の自由裁量に委ねられていた。したがって、元禄一〇年・一一年の酒造米高は、株高に比べるとかなり平準化されている。しかし全体として、両年ともに株高を下回り、酒造家一人当たりの平均米高は元禄一〇年八八石、一一年七五石にとどまっていた。このように零細な酒造規模は、大坂三郷のように「密造脱税の弊」が横行して酒造米高の過少申告が行われた可能性もあるが(『大阪市史』一)、運上銀賦課の重圧や市場に規定されたものと考えたい。さらに、元禄一六年・宝永四年・正徳五年には、元禄一〇年の酒造実績を基準として減醸規制が実施されたため(『日本財政経済史料』二)、酒造米高は一層減少し、沈滞をきわめている。元禄酒造株体制が富田林村酒造業に発展的契機を与えるものでなかったことは、いま述べたとおりであるが、運上銀賦課制度は、当初期待されたほどには幕府財政面で増収効果を発揮せず、運上銀が上乗せされたために酒値段の高騰を招いただけであった。このため、運上銀は宝永六年に廃止され、ここに元禄酒造株体制は実質上終わりを告げた。それとともに、富田林村酒造業もあらたな展開を示すことになる。