享保年間の政策転換と恵美須講

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享保年間(一七一六~三五)に入ると、米価は大坂への廻米量の増加によって低下傾向をたどり、米価を中心とする旧来の価格体系が崩壊した。このような米価の相対的・実質的下落が、領主財政に大きな打撃を与えたことは当然であり、幕府は一連の米価維持政策を展開した。その一環として、酒造業に関しても統制緩和・奨励の政策がとられるようになった。

 富田林村の酒造業も、いま具体的に裏付けることはできないが、享保年間以後規模の拡大が個別的に見られたと考えられる。享保年間の特徴は、まず酒造家の顔ぶれが、一部家督相続による改名はあるが、前掲表79において正徳五年(一七一五)に営業していた竹田八兵衛・倉内甚左衛門・杉山四郎右衛門・河村助左衛門・万保六郎兵衛と、同年一二月に新規参入した仲村甚右衛門の六人に固定されたことである。そして、享保七年には、この六人により仲間の私的結合である「恵美須講」が結成された。

 統制緩和による生産拡大が既成の販売網を混乱させたらしく、同年正月の「恵比須講証文之事」(近世Ⅴの2の八)によると、講結成の直接の契機は酒の販路協定であり、そこには協定違反の場合の制裁規定も含まれていた。同九年三月にも、「去ル寅(享保七年)正月廿日ニ書付判形ヲ以相定候通、酒造屋家々ニ売来候売子江外之酒屋一切酒商仕間敷候」と、同じ趣旨の誓約証文が取り交わされた。さらに、協定の内容は酒の値段にも及んだ。例えば、同年六月「酒弐番煮仕候間、当月廿六日より五匁方直段上ケ申候、則、颪直段(一石当たり)新銀九拾匁かへ」というように、酒値段の維持もしくは引き上げが図られ、「高下之抜売」の自粛が申し合わされた(富田林杉山家文書「定」、近世Ⅴの2の一〇)。

 なお、恵比須講の活動は、販路と価格の協定にとどまるものではなかった。原料米の共同購入も講活動の一環であり、享保七年には、伊勢神戸藩石川総茂領の石川郡村々の蔵米一四〇石、旗本小出尹従(ただより)知行所錦部郡板持村の蔵米一〇〇石の払い下げを受けていることが知られる(富田林杉山家文書「万留帳」)。さらに、金融活動の展開も確認される。寛保三年(一七四三)、銀二五貫三一二匁の返済を求めて大坂町奉行所に行われた「預ケ銀滞出入」は、酒造家仲間六人の出訴によるものであった。訴えられた相手は、近江膳所藩本多康敏領の石川郡・錦部郡一九カ村の庄屋・年寄四二人であったが、翌延享元年、膳所藩用聞の調停により訴願が取り下げられているので、領主財政にかかわる貸付であったと考えられる。