宝暦四年(一七五四)、幕府は勝手造り令を触れ出した。それは、新酒・寒酒を問わず、元禄一〇年(一六九七)の酒造米高までは、休株の者も含め勝手次第に酒造を行ってもよいという内容であったが、実際は、享保年間以後における酒造株の流動化と元禄一〇年の酒造米高を超える酒造が行われている現実を黙認ないしは追認するものであった。このため、「元禄のつくり高をいまにては株高とよぶ、そのまへ三分一などには減けるが、米下直なりければ、その株高の内は勝手につくるべしと仰出されしを、株は名目にて、ただいかほどもつくるべきことと思ひたがへしよりして、いまはつくり高と株とは二つに分かれて、十石之株より百石つくるもあり、万石つくるもあり」(松平定信『宇下人言』)という事態が引き起こされるに至った。このような過程を経て、灘目と呼ばれる摂津国西部の内海沿岸地域の農村部には、灘酒造業の台頭が見られた。
富田林村においても、享保年間六人であった酒造家は、その後数を増した。いま、延享三年(一七四六)および明和八年(一七七一)の酒造家を示すと、表80のとおりである。「元禄十年株改め酒造高」は、史料上の用語であるが、同年の酒造米高ではなく、表78における本高米(表79では古来より造高)のことである。それは、元禄時代と同様にここでも営業特権を示すに過ぎず、実際の酒造規模とは無関係な数字であった。延享三年には、酒造株の細分化と借株によって酒造家は一一人に増加し、そのうち八人が営業している。
元禄10年株改め酒造高 | 延享3(1746) | 明和8(1771) | 備考 |
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石 | |||
159 | 次左衛門 | *貞歩 | |
153 | 甚左衛門 | *たか | |
30 | 善左衛門 | 長左衛門 | |
50 | 助十郎 | 助十郎 | |
70 | *元右衛門 | ・九兵衛 | 九兵衛株94石を分割 |
56 | 六郎兵衛 | *六郎兵衛 | |
74 | 徳兵衛 | 新右衛門 | |
10 | 亀松 | 万助 | 九兵衛株94石を分割 |
9 | *清吉 | *幸右衛門 | 〃 |
5 | 喜左衛門 | *吉左衛門 | 〃 |
10 | *平助 | *庄助 | 森尾村三右衛門から借株 |
注1)*印は休株。
2)富田林杉山家文書「明細帳」により作成。
酒造家の増加は、アウトサイダーの誕生を意味したから、恵美須講の運営にも影響をもたらしたと考えられる。さきに述べた酒造家六人による販路と価格の協定は、再三にわたり反復された。反復されたこと自体、協定が遵守されず、講による競争排除が困難であった実態を示唆するが、アウトサイダーの誕生は、そのような状況を一層深刻化させ、講の存在意義を希薄にしたと考えられる。宝暦三年(一七五三)には、「酒造屋仲間諸事猥リニ相成候ニ付」という理由で、一一月に「誓約証文」、一二月に「一札之事」が作成された。
これらの協定は「仲間江無附届ケ売子へ商事致申間敷事」と「高下之抜売堅致間敷候事」を重ねて確認したものであったが、そこには八兵衛(表80では次左衛門)の名はなく、連印している酒造家は五人である(富田林仲村家文書)。恵美須講は、その後消滅の道をたどったのであろうか、この宝暦三年一二月の「一札之事」を最後に、史料上姿を消してしまう。
なお、表80によると、明和八年には休株が目立ち、営業中の酒造家は四人に減少している。このことは、自由競争に基づく生産集積を意味すると考えられる。勝手造りの結果としての酒造業の発展ぶりを見ると、表81のとおりである。天明五年(一七八五)には、徳兵衛が酒造米高二一三五石と、村内はもとより河内国においても最大の酒造規模をもって立ち現れ、長左衛門も一〇〇〇石を超えるなど、合計では五四九四石に達していて、さきに見た本高米や元禄一〇年の酒造米高と比較するとき、富田林村においても「つくり高と株とは二つに分れて」いたことが明らかである。酒造業がもっとも盛んであったのはこの頃で、享和元年(一八〇一)刊行の『河内名所図会』には「水勝れて善れバ、酒造る業の家数の軒をならぶ」と記されることになる。酒造家数についてはいささか誤解を生じかねない表現であるが、いま述べたような富田林酒造業の規模拡大を伝えるものとして読み取るべきであろう。
人名 | 天明5(1785) | 天明7(1787) | 寛政7(1795) |
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石 | 石 | 石 | |
長左衛門 | 1,103 | 368 | 800 |
助十郎 | 961 | 320 | 720 |
とみ | 397 | 344 | |
徳兵衛 | 2,135 | 712 | 1,760 |
万助 | 898 | 299 | 680 |
亦兵衛 | 440 | ||
合計 | 5,494 | 1,699 | 4,744 |
注)近世Ⅴの2の一一、一七により作成。
享保年間から進展した勝手造りは、凶作に見舞われて米価が高騰した天明六年、減醸(げんじょう)令が出されるに及んで終止符が打たれた。同年の減醸規制は二分の一造りであったが、翌年、松平定信が老中として幕閣の中心になると、寛政の改革が実施に移され、酒造業の統制が行われるようになった。すなわち、天明七年には三分の一造りの減醸令が出されるとともに、酒造諸道具の検査、増造・隠造の取締強化などの措置がとられた。そして、翌八年には株改めが行われた。このとき、酒造家から書き上げられた「只今迄造来候酒造米高」は天明五年のもので、減醸規制の基準とされた数字であるが、寛政元年(一七八九)には、それが「永々之株」と称されるようになり、分割して譲渡することが禁止された(『日本財政経済史料』二)。
したがって、表81に見られる天明七年の酒造米高減少は、三分一造りの減醸規制によるものである。老中松平定信は寛政五年に失脚し、同七年には、「天明五巳年迄酒造り来候高之内、勝手次第酒造仕候様被為仰付」、減醸令もなく、幕府の酒造統制は大幅に緩和された。しかし、同年は各酒造家とも「酛(もと)取懸り延引仕候ニ付」との理由で、天明五年の酒造米高を若干下回っている(近世Ⅴの2の一七)。