仲村家の醸造法

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さきに述べたとおり、仲村家は、享保年間以降の勝手造りの時期に飛躍的に酒造規模を拡大させ、天明五年(一七八五)には酒造米高が二一三五石に達して、河内国で最大の酒造規模を誇ることになった。ここでは、それを可能にした技術的基礎を簡単に見ることにする。

 当時、富田林村の酒造家は、「古酒売透候節」には、七月中旬から「盆酛」と称する酛仕込みを開始し、翌年春彼岸のころまでかなり長期間にわたって醸造を行っていた。酛仕込みの開始から「初揚」すなわち酒ができるまでの日数は、盆酛の一五日から、寒前に酛仕込みを行う場合の七〇日余りまで、仕込みの時期によって大きな差が見られた(近世Ⅴの2の一一)。

写真182 仲村家屋敷

 寛政元年(一七八九)、三分の一造りの減醸規制が実施されたとき、仲村家は六四〇石の酒造米高を届け出た。その内訳は、新酒二〇酛(酒造米高一六〇石)、前造および寒酒五二酛(同四一六石)、春酒八酛(同六四石)であった。このうち、新酒二〇酛の仕込み工程を見ると表82のとおりである。これによると、酛取りは八月晦日から九月一一日まで続けられ、それが酛仕込み開始から二一日後の九月二〇日に熟成し始めて、醪(にごり)仕込みの工程に移る。この工程では、一〇月一三日までの二三日間を要して、蒸米・麹・水が初添・中添・留添の三段掛けの方法で添加される。こうして仕込まれた醪は、熟成をまって九月二九日から順次圧搾され、酒と粕に分離される。「絞揚」の作業がこれである。酛始めから初揚げまでの日数は三〇日、絞揚げが完了する「惣仕舞」までの日数は五八日である(近世Vの2の一二)。

表82 新酒の仕込み工程〔寛政1年(1789)〕

 新酒二〇酛の仕舞個数は「一日二ツ取」であったが、いまその仕込み方法を一酛単位で示すと、表83のとおりである。この表には、仲村家の技術水準を明らかにするため、ほぼ同時期の大坂北組灘屋清兵衛、江戸市場で「丹醸」の銘柄で知られた伊丹酒の醸造法をあわせて表示してある。まず、仲村家の醸造法を見ると、酛米は五斗仕込みであり、これを培養液とする醪仕込みは、蒸米・麹・水合計の添加量が初添・中添・留添と工程の進行に伴ってほぼ二倍ずつ増加され、蒸米(むしごめ)・麹(こうじ)の合計である白米高、すなわち仕舞高は八石、それに水を加えた醪量は一三石三斗四升となっている。

表83 仲村家・大坂灘屋・伊丹丹醸の仕込み方法
区分 初添 中添 留添 合計
蒸米 0.500 0.810 1.600 3.200 6.110
仲村家 0.200 0.250 0.480 0.960 1.890
寛政元年 白米計 0.700 1.060 2.080 4.160 8.000
(1789) 0.700 0.670 1.320 2.650 5.340
合計 1.400 1.730 3.400 6.810 13.340
蒸米 0.500 1.000 2.000 3.000 6.500
大坂灘屋 0.200 0.300 0.600 0.900 2.000
寛政2年 白米計 0.700 1.300 2.600 3.900 8.500
(1790) 0.700 0.900 1.600 2.000 5.200
合計 1.400 2.200 4.200 5.900 13.700
蒸米 0.500 0.865 1.725 2.850 5.940
伊丹丹醸 0.170 0.265 0.525 1.600 2.560
寛政10年 白米計 0.670 1.130 2.250 4.450 8.500
(1798) 0.480 0.720 1.280 1.920 4.400
合計 1.150 1.850 3.530 6.370 12.900

注)近世Ⅴの2の一二、小松和生「近世都市酒造業の動態―大坂三郷の場合―」(宮本又次編『商品流通の史的研究』)、長倉保「灘の酒」(『日本産業史大系』6)により作成。

 以上の醸造法は、灘屋および丹醸と比較してさほど差があるわけではないが、若干の相違点を指摘しておくと、仕舞高は仲村家が八石、灘屋・丹醸が八石五斗になっている。また、蒸米に対する麹の割合を算出すると、丹醸が四三%であるのに対して、仲村家と灘屋は三一%である。醪仕込み工程における麹使用量の削減は、仕込み技術の合理化を示している。仲村家の醸造法で注目に値するのは、仕舞高に五斗の違いがあるにもかかわらず、醪量は丹醸を上回り、灘屋にも近いことである。いうまでもなく、水の使用量が多いためであるが、このことは量産化とコスト低減を可能にした。仕舞高に対する水の割合、すなわち吸水率は仲村家六七%、灘屋六一%、丹醸五一%であり、石川谷の良質の水がこのような量産化を可能にしたものと考えられる。