江戸積みの展開

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寛政の改革により酒造業に対する統制が強化されたが、それは江戸下り酒に関しても同様であった。幕府は、上方と江戸との経済的不均衡の是正を意図して、関東で「上酒試造」を実施する一方、寛政二年(一七九〇)九月、従来江戸積みの実績を持たない地域からの入津(にゅうしん)を禁止した。そして、同四年には江戸積みの各酒造地ごとに大行司をたて、その大行司が一紙に取りまとめた送り状を浦賀番所で改印することとし、江戸積み主産国として山城・河内・和泉・摂津・伊勢・尾張・三河・美濃・紀伊・播磨・丹波の一一カ国が指定された(『日本財政経済史料』二・九)。このとき、河内一国の「江戸積酒造大行司」になったのは、表81で最大の酒造米高を書き上げていた仲村徳兵衛であった。

 翌五年、摂津国の各酒造地および河内国に割り当てられた江戸積みの樽数は、表84のとおりであった。ここに明らかなように、河内国への割当は六〇〇樽(一樽三斗入)から八〇〇樽までであり、摂津国のいずれの酒造地と比べても、顕著な差が見られた。寛政六年一二月の「差上申御請書之事」には、「清酒之儀、近郷在々売捌、江戸廻仕候売酒無御座候」と記載され、下げ札に「本文之内冨田林村之儀ハ、在々江戸船積仕、酒造人共之内樽積仕候」とある(富田林仲村家文書)。つまり、河内の酒造業は地売りをもっぱらとするが、富田林村の酒造家だけが江戸積みを行っているというのである。次にその実態を見ることにしよう。

表84 江戸積み樽数割当〔寛政5年(1793)〕
摂津伊丹酒 45,000~58,000
  池田酒 8,000~10,200
  大坂酒 17,000~21,700
  伝法酒 10,900~13,600
  尼崎酒 3,200~4,100
  今津酒 16,000~20,200
  西宮酒 28,000~35,900
  灘酒 123,000~156,600
河内酒 600~800

注)近世Ⅴの2の一四により作成。

 富田林村酒造業の江戸積みの起源や、河内国における「江戸積株」設定の過程については、明らかでない。いま、江戸積みの樽数が知られるもっとも古い年次は享保元年(一七一六)である。同年二月から翌年正月までの一年間の江戸積み樽数を示すと、表85のとおりである。これによると、当時の酒造家全員が参加しているが、合計一九八〇樽(五九四石)のうち過半は河村助左衛門により占められている。前年の正徳五年に株を購入して当年酒造業を開始したばかりで、寛政四年には江戸積酒造大行司となる仲村甚右衛門(徳兵衛)家も、助左衛門からの「買酒」によって江戸積みを行っている。江戸への輸送経路は、喜志村まで陸送され、舟運で石川を下って多くは伝法、一部は西宮・安治川の船問屋に送られ、そこで江戸積み廻船に積み込まれた(近世Vの2の六・七)。

表85 享保元~2年(1716~17)の江戸積み
人名 2月 閏2月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 12月 1月 合計
竹田八兵衛 98 22 12 54 186
倉内甚左衛門 10 120 40 30 20 20 240
杉山善左衛門 12 98 12 40 162
河村助左衛門 30 110 290 142 60 240 20 100 60 1,052
万保六郎兵衛 92 78 20 10 40 28 32 300
仲村甚右衛門 *40 *40
合計 40 110 600 282 104 432 72 40 188 112 1,980

注1)*印は、助左衛門からの買酒。
 2)近世Ⅴの2の六、七により作成。

 その後の江戸積みについて、年次的変動は明らかでないが、河内酒の江戸下り酒全体に占める比重、さらには個々の酒造家にとっての江戸市場への依存度も小さかった。寛政元年を例にとると、河内酒の江戸積みは二一〇五樽で、江戸下り酒合計六一万七一〇五樽に対する比率は〇・三%に過ぎなかった(柚木学『近世灘酒経済史』)。

 先述のとおり、寛政四年には徳兵衛が大行司となり、河内酒の翌五年の江戸積み樽数として、六〇〇樽から八〇〇樽が割り当てられたが、このような規制は、新興の江戸下り酒銘醸地であった灘五郷などには甚大な打撃を与えたものの、河内酒にとってはさほど大きな意味を持たなかったと推測される。河内酒の上記の樽数は、同年正月から一二月までの江戸入津を規定するものであったが、実際には、同年三月に六〇樽が江戸積みされたにとどまり、翌六年になって四月から一一月にかけて四六〇樽が出荷され、合計五二〇樽で打ち切られた。引き続いて、一二月から翌七年一一月までの一年間の樽数として、一二〇〇樽が認められた。このときは、寛政八年正月にずれこみながらも、合計一二二五樽が出荷され、割当の樽数は一応消化された(近世Vの2の一五)。

 寛政七年以降の幕府の酒造統制の緩和は、江戸下り酒に関しても同様であり、浦賀番所で各酒造地大行司の一紙送り状を改める制度は存続されたが、江戸積みは主産国一一カ国の樽数割り当てが撤廃されて自由となった。ただ例外的に享和二年(一八〇二)には、同年一〇月から翌三年九月までの一年間の江戸下り酒が六〇万樽に制限され、河内酒の江戸積みは全体の〇・二%に相当する一〇〇〇樽と決められた。そして、河内国の江戸積み酒造家の間では、この割当樽数が寛政八年から享和元年までの六年間の実績を基準にして比例配分された。その六年間は、減醸規制がなく、江戸積みにも制約がなかった時期であった(近世Vの2の一九)。

 表86に示したとおり、江戸積み酒造家は河内国の各郡に拡散し、富田林村の全酒造家が江戸積みを行っていた享保元年とは様相が異なっている。上記六年間の実績は合計六五七一樽、一カ年平均では一〇九五樽であった。この数字は、これまで触れた年次と比較して別段増加していないが、この間、富田林村酒造家は八二・四%の五四一四樽を積出し、享和二年には八二四樽の割当を得た。一方、同年一〇月から翌三年にかけて積み出されたのは合計九四八樽であった。江戸積みを行わなかった酒造家もあり、詳細は明らかでないが、江戸積株を持たない古市村(現羽曳野市)亀屋吉左衛門も一札を大行司に差し入れて五〇樽を積み出している。富田林村酒造家の状況を見ると、江戸積みは大行司の徳兵衛だけであり、ほぼ割当の樽数を消化している。河内酒江戸積出し地としての同村の中心的地位は、もはや大行司個人によって支えられていたというべきであるが、その七六〇樽のうち二六〇樽は、摂津国川辺郡野田村(現伊丹市)大和田屋平右衛門と大坂天満魚屋町(現大阪市北区)塗屋藤兵衛からの「買積」であり、五〇〇樽(一五〇石)が富田林村から積み出されたに過ぎなかった。この年の醸造高は判明しないものの、仲村家も販路の中心を、地売りに置いていたことはいうをまたない。

表86 享和2年(1802)の江戸積み
人名 寛政8(1796)―
享和1(1801)実績
享和2(1802) 備考
割当 積出
石川郡富田林村 杉山長左衛門 100 (1.5) 15
仲村徳兵衛 5,054 (76.9) 769 760 内、260樽買積
河村万助 260 (4.0) 40
小計 5,414 (82.4) 824 760
石川郡別井村 辻花助治 189 (2.9) 29
   新堂村 林久米蔵 60 (0.9) 9
大県郡安堂村 安尾三五郎 568 (8.6) 86 86
若江郡八尾木戸村 大和屋庄右衛門 70 (1.1) 11 11
交野郡私部村 綛屋政次郎 270 (4.1) 41 41
古市郡古市村 亀屋吉左衛門 50 江戸積株なし
合計 6,571 (100.0) 1,000 948

注)近世Ⅴの2の一九により作成。