文化・文政年間の自由営業

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寛政七年(一七九五)から進められた統制緩和は、文化年間(一八〇四~一七)に入ると、米価の下落に伴って一層加速された。同三年には、「近年米価下直にて、世上一同難義之趣に相聞え候、右躰米穀沢山之時節に付、諸国酒造人共は不及申、休株之者其外是迄渡世に不仕ものにても、勝手次第酒造渡世可致候、勿論酒造高是迄之定高に拘はらず仕入相稼可申候」と触れ出され(『日本財政経済史料』二)、酒造株の有無をも問題としない徹底した酒造奨励が図られた。

 文化三年令に基づいて生まれた新規酒造家の営業は、文政八年(一八二五)に禁止されたものの(同上)、自由営業の時期は、天保年間(一八三〇~四三)に統制が加えられるようになるまで続いた。その間、江戸には年間一〇〇万樽を超える入津料が記録され、過剰供給による酒値段の下落が見られた。上方の銘醸地では生産・出荷の自主規制をめぐって対立が引き起こされていたが(『伊丹市史』二)、競争が激化し、灘酒・伊丹酒が江戸入津量を飛躍的に増加させる過程で、河内酒の江戸積みに関する史料が一切得られなくなる。このとき、河内酒は江戸市場から締め出され、江戸積み酒造仲間の空洞化と地酒型への完全な転化が実現されたと考えられる。

 天保年間に入ると、全国的規模での凶作と体制危機の深化に対応すべく、幕府はまたまた酒造業の統制に乗り出した。同五年五月には、「去巳年(天保四年)以前迄造来米高并減石之高共」の調査が全国的に行われ、減醸規制は、このとき書き上げられた天保四年以前の酒造米高を基準として実施された(『日本財政経済史料』二)。

 文化・文政年間における富田林村酒造業の動向が明らかでないので、天明五年(一七八五)と天保四年以前の酒造米高を比較すれば、表87のとおりである。前者は享保年間(一七一六~三五)以後の、後者は文化・文政年間の自由競争・営業の結果を示している。文化・文政年間における株移動の結果、天保四年以前には、酒造家は従来からの長左衛門・徳兵衛のほか、新規参入の二人の茂兵衛だけとなり、酒造米高にも大きな落ち込みが見られる。文化・文政年間には、享保年間以後の時期のような酒造業の発展は再現されなかったと判断される。

表87 天明・天保年間酒造米高の変化
天明5年(1785) 天保4年(1833)以前 備考
長左衛門 1,103 長左衛門 1,103
助十郎 961 文政11年若江郡寺内村へ株譲渡
とみ 397 文政7年丹南郡平尾村へ株譲渡
徳兵衛 2,135 徳兵衛 1,920
万助 898 茂兵衛 720 文化15年株譲渡
茂兵衛 150 文政9年丹南郡岡村から株譲渡
合計 5,494 合計 3,893

注)近世Ⅴの2の二〇により作成。