河内酒造仲間の成立

678 ~ 681

大凶作に見舞われた天保七年(一八三六)、幕府は米と酒の価格を安定させるため、強力な酒造統制を実施に移した。いま大坂町奉行所から出された触れ・口達を列挙すれば、次のとおりである。まず八月の三分の一造りの減醸令に始まり、同月酒造米・酒の売買、酒造諸道具の売買・貸借などについて届出を義務付け、九月酒の値上げ禁止、一〇月酒造米のうち掛米の一括購入禁止、一一月減醸規制が株高でなく「巳年(天保四年)以前迄有躰造来高ニ基」づくものであることの再確認、江戸積み樽数の削減、新酒売り出しまで江戸積みや他所への酒の販売禁止などが申し渡された(『大阪編年史』一八)。

 そして、同年一一月、大坂町奉行所は摂津・河内・播磨三カ国の酒造業を一元的に支配することとなった。それまで、河内国では江戸積み酒造仲間は存在したものの、領主支配を異にし、地売りに携わる零細な酒造家を網羅した仲間結合は見られなかった。そこへ、大坂町奉行所が直接取締を行うに当たり、河内酒造仲間が突然組織されたのである。河内国の大行司になったのは、江戸積み酒造大行司を勤めていた富田林村の仲村徳兵衛であり、その地位は幕末まで世襲されることになる。

 徳兵衛は、一一月二一日大坂町奉行所から「差紙」を受け、翌日町奉行所に出向いて大行司を命ぜられ、二八日までに河内国の「株高帳」を作成し、翌二九日、摂津・播磨の大行司、大坂三郷酒造取締掛、兵庫津名主、西宮浜方年寄らとともに、町奉行跡部良弼のもとに召喚されて、酒造取締の「被仰渡御請証文之事」に連判するという、慌ただしさであった。彼は、株高帳の作成に当たっては「中ニ者いろいろの事共御座候得共、略之」と記している。強制的で唐突な仲間の結成には、酒造家の間に抵抗感があったと考えられる(富田林仲村家文書「河州酒造御用記」)。しかし、同年九月には、米価の高騰により大坂道頓堀で打ちこわしが発生しており、米価の引下げのためには酒造統制が焦眉の急であると判断され、異例ともいえるほど迅速に取締のための体制が実現されたと考えられる。

 このとき、減醸規制は四分の一造りに強化され、摂津・河内・播磨三カ国の各酒造地における江戸積み・他国積みの樽数も過去の実績に応じて取り決められた。このようにして、同年一〇月から翌八年九月までを期月とする河内一国の酒造米高は四五六九石余りに抑えられ、そのうち他国積みは二・八%に相当する四三〇樽(一二九石)であった。他方、江戸積みは「減石中入津差止メ候積リ」とされ、以後幕末までこれが再開されることはなかった(『枚方市史』九)。河内酒造仲間の結成後、酛取の開始期日や酒造米高の違反に対しては厳しい取締が行われ、天保八年には、茨田郡・交野郡の酒造家が不正・不埒であったとして、大坂町奉行所から醸造停止・株没収の処分を受け、同一一年にも、交野郡の一四人の酒造家が「増造」で摘発され、処罰を受けた(近世Ⅴの2の二〇、富田林仲村家文書「過酒一件控帳」)。

 河内酒造仲間を構成した酒造家の天保一一年および嘉永三年(一八五〇)における郡別分布は、表88のとおりである。ここでの酒造米高は、天保四年以前の数字で、天保一三年には「永々造高」という名称になったが、さきに述べたとおり連年の減醸規制の基準であって、表示の年次の醸造高を意味するものではない。したがって、それは各郡の酒造規模についての相対的な格差を伝えるにとどまる。まず天保一一年には、交野郡に零細規模の酒造家の集中が見られる。逆に、石川郡は六人で酒造米高合計の二二・五%を占めている。このうち富田林村は、酒造家四人で酒造米高三八九三石に達し、全体の一八・九%という単一村落としては最高の比重を占めていた。

表88 河内国各郡の酒造家分布
郡名 天保11(1840) 嘉永3(1850)
人数 酒造米高 平均 人数 酒造米高 平均
茨田郡 13 (17.5) 2,784 (13.5) 214 8 (12.3) 2,346 (11.8) 293
交野郡 32 (43.2) 4,742 (23.1) 148 27 (41.5) 3,977 (20.0) 147
讃良郡 4 (5.4) 1,046 (5.1) 262 2 (3.1) 400 (2.0) 200
河内郡 4 (5.4) 2,130 (10.4) 533 3 (4.6) 1,650 (8.3) 550
渋川郡 1 (1.5) 750 (3.8) 750
若江郡 4 (5.4) 1,711 (8.3) 428 4 (6.2) 1,871 (9.4) 468
大県郡 2 (2.7) 832 (4.0) 416 3 (4.6) 982 (4.9) 327
安宿郡 1 (1.4) 30 (0.1) 30
志紀郡 1 (1.5) 42 (0.2) 42
丹南郡 4 (5.4) 1,027 (5.0) 257 4 (6.2) 1,057 (5.3) 264
錦部郡 3 (4.1) 1,147 (5.6) 382 4 (6.2) 1,415 (7.1) 354
古市郡 1 (1.4) 496 (2.4) 496 1 (1.5) 450 (2.2) 450
石川郡 6 (8.1) 4,633 (22.5) 772 7 (10.8) 4,983 (25.0) 712
合計 74 (100.0) 20,578 (100.0) 278 65 (100.0) 19,923 (100.0) 307

注)近世Ⅴの2の二〇、二一により作成。

 次に、嘉永三年の分布状態を見ると、交野郡・茨田郡において零細酒造家が多く姿を消し、全体的に人数・酒造米高が減少している。その結果、平均酒造米高は上昇している。しかし、天保一一年と比べて目立った変化はなく、うち続く減醸規制のもとで発展的契機を持たないまま推移しつつある様相がうかがわれる。同年、石川郡の酒造米高の比率は二五%とわずかに増加しているが、富田林村の酒造家は五人で、酒造米高は全体の二一・三%に相当する四二四三石へと若干伸びている。

 なお、天保七年一一月に結成された河内酒造仲間は、慶応二年(一八六六)に寄付を募り、西京の松尾大社に石燈籠一対を献納した(富田林仲村家文書「松尾社石燈籠寄附名前帳」)。同年は、第六章第三節に述べるとおり、米価の高騰により、富田林村の惑乱をはじめとして、各地で米屋・酒造家が打ちこわされる騒動が続発していた。酒造の神である松尾大社への献燈が何を祈念するものであったのかは、いうをまたないであろう。

写真183 松尾大社石燈籠 (京都市西京区)