綿は、近世の河内国において代表的な商品作物の一つであった。各農家で栽培された綿は、一般的には余業としての手紡・手織によって木綿布に加工された。こうして産出された木綿布は、河内木綿と総称され、嘉永六年(一八五三)刊行の『守貞漫稿』に、「今世河州を木綿の第一とし又産すること甚多し、京・坂の綿服には河内もめんを専用とす」というほどに、広くその名が知られた。
前掲表76によると、紺屋・晒屋・布屋・木綿屋など、衣料関係の屋号・肩書きを持つ住民が数多く見受けられた。このうち紺屋は、寺内町のころ「諸役御免」であったとの由緒を伝え(近世Ⅰの三)、文禄五年(一五九六)および慶長九年(一六〇四)にもきわめて多く存在した。一方、布屋・木綿屋は明暦三年(一六五七)以後数を増し、また表77に見た貞享三年(一六八六)の他国商いでも、近江国への木綿商いが活発に行われていた。当時、木綿商人は、問屋・仲買の区分もなく、自ら買い集めた商品を周囲や遠国に販売していたと考えられるが、富田林村は早くから周辺農村の綿作と結び付き、その加工・流通の中心地であった。しかし、実綿(一斤二二〇目)・繰綿(一斤六〇目)・木綿(一反二丈六尺)などいくつかの段階で商品化されていたため、それぞれの流通や加工の実態について、明らかでない部分が多い。
『中河内郡誌』によると、宝永七年(一七一〇)富田林村に三軒の木綿問屋が設置され、仲買の人員が取り決められたという。問屋設置は、それまでの南河内における木綿集散の中心地としての同村の地位が一層明確化されたことを意味するが、時期的に、同元年大和川の付け替えが行われて、従来にもまして綿作とその加工業が盛んになり、木綿の流通が拡大したころと符合するのも注目に値する。しかし、『中河内郡誌』の記述は、出典や依拠史料が示されていないため、歴史的事実を伝えるものか否かを確認することができない。
やや時代は下るが、寛政四年(一七九二)正月、布屋武左衛門から佐渡屋徳次郎へ問屋株の譲渡が行われたときの「為取替証文之事」(富田林田守家文書)には、「当村木綿問屋・仲買之義者、布屋武左衛門殿先祖并此方(黒山屋三郎兵衛)先祖、両家之もの共致世話取立、問屋株・仲買人数当村并外村ニ而取極」たとある。当初、木綿問屋を設置し、私的な仲間を構成したのは二軒であるというのである。この二軒は、貞享三年の「宗旨御改帳」において近江国に他出していた村民のうち、「商ニ参候」と付記された布屋清左衛門の子武左衛門、「木綿商い」と付記された黒山屋久兵衛の子三郎兵衛と、屋号・人名が一致する。
寛政四年の証文によると、問屋および仲買仲間は、毎年正月一〇日に「戎講(えびすこう)」、一〇月には「尺改(しゃくあらため)」を開き、「年分木綿売買猥ケ間敷義無之様」申し合わせを行った。酒造家の恵美須講と同様に、競争排除と仲買人の統制が目的であったと考えられる。戎講・尺改の会合にかかる入用は、新堂村と甲田村に田地が買い求められて、小作の宛米三石から年貢諸役を差し引いた残りの作徳米により賄われた。なお、仲買の新規加入は、「(問屋)両家申談、差支無之ものニ候ハヽ、仲間入致させ可申事」と規定されていたが、加入銀として四三匁が必要であり、これが参入障壁の役割を果たしたと考えられる。