富田林村木綿問屋の商いは、販路が主として近江国に求められ、幕末に至るまで大坂市場に依拠しなかったところに特徴があった。近江国のほかには、京都・伏見・若狭などにも若干販売されていたようである。木綿荷物の輸送は、馬方により堺を経て大坂まで陸送された後、伏見に送られた。販売品種は、厚地の白木綿が圧倒的に多く、染色糸で縞紋様を織り込んだ縞木綿も見られた。
「縞帳」は、縞木綿の多数の布片を帳面に貼り付けたもので、縞柄と色の見本帳である。黒山屋三郎兵衛の文久二年(一八六二)「万嶋手控帳」(富田林田守家文書)に貼り付けられた布片は、格子縞より立縞の模様のほうがやや多いが、いずれも素朴で美しい色調を漂わせている。
喜志屋藤兵衛がいつ木綿問屋仲間に参入したのかは明らかでないが、杉本家には、文化六年(一八〇九)以降の「仕切控日記」あるいは「木綿仕切帳」が残されている。これにより、木綿の販売量と販売価格の推移を見ると、表89のとおりである(今井修平「近世後期河内における木綿流通の展開」(脇田修編著『近世大坂地域の史的分析』所収))。近江国を中心とする年間販売量は、文化年間の一万反台が文政年間後半から天保年間にかけては二万反台で推移するようになり、弘化年間以降は三万反台へと順調な伸びを示している。平均価格は、全販売価格の平均ではなく、毎年恒常的に多量の取引を行っていた近江国大津八丁銭屋卯兵衛への白木綿一反当たりの、運送費などの諸経費を含まない富田林渡し価格の平均である。これも、多分に米価をはじめとする諸物価の上昇に見合うものであったと考えられるが、上伸を続けている。
年次 | 販売量 | 平均価格 |
---|---|---|
反 | 匁 | |
文化6(1809) | 11,143 | 10.03 |
11(1814) | 13,468 | 10.30 |
13(1816) | 16,843 | 10.66 |
14(1817) | 14,366 | 9.35 |
文政3(1820) | 17,907 | 9.56 |
4(1821) | 16,572 | 9.41 |
6(1823) | 19,057 | 10.20 |
8(1825) | 21,652 | 10,18 |
10(1827) | 24,920 | 10.06 |
11(1828) | 23,282 | 10.01 |
12(1829) | 25,518 | 10.37 |
天保3(1832) | 23,510 | 11.77 |
5(1834) | 26,201 | 11.20 |
10(1839) | 17,058 | 15.85 |
12(1841) | 24,787 | 16.13 |
13(1842) | 22,243 | 15.29 |
弘化1(1844) | 27,428 | 15.42 |
2(1845) | 27,428 | 15.78 |
3(1846) | 32,080 | 15.61 |
4(1847) | 30,194 | 15.29 |
嘉永1(1848) | 32,421 | 15.32 |
2(1849) | 29,391 | 15.08 |
3(1850) | 24,237 | 14.97 |
6(1853) | 28,364 | 15.67 |
文久2(1862) | 32,275 | 18.93 |
慶応2(1866) | 32,762 | 66.31 |
注)今井修平「近世後期河内における木綿流通の展開」(脇田修編著『近世大坂地域の史的分析』所収)。
しかし、近江国の市場環境は政局の緊迫を反映して、けっして安定的ではなかったようである。安政七年(一八六〇)三月、彦根藩主で大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたときには、その後、彦根藩は過敏なほどの厳戒体制をとり、他国他領の者が城下に立ち入ることを禁止した。喜志屋藤兵衛は、「帳面類風呂敷包背負、雪踏など履き、所のものに似せ」ひそかに商いを続けたと手稿に記している。そして、慶応二年(一八六六)に至り、黒山屋三郎兵衛・佐渡屋徳次郎・喜志屋藤兵衛の木綿問屋三軒は、彦根藩に金一〇〇両と白木綿五反を献納して、城下における木綿商いの鑑札を得ることに成功している(近世Ⅴの1の六)。