いま述べたところから、富田林村を中心とする地域では、問屋の私的結合が比較的有効に機能していたと判断される。しかし、河内国においては、ほかにも私的な問屋仲間がいくつかあり、地域によっては、問屋と仲買との区分が流動的であったり、大坂の上町毛綿仲買組仲間への従属が見られたりした。
このような状況のもとで、慶応三年(一八六七)八尾組の木綿問屋の主導によって、河内一国を対象とする「河内木綿株」設立の動きが発生した(以下、『明治元年河内木綿株設立一件』(『富田林市史研究紀要』三)による)。株設立の目的は、価格を「天然之相場」にまで引き下げるため、問屋の商法を自己規制して延商売・糶売(せりうり)を禁止するとともに、仲買を統制して買止・締売などを禁止し、また、織元の農家で買い付けに当たる問屋手代の不奉公をも取り締まるというものであった。富田林村の木綿問屋黒山屋三郎兵衛・佐渡屋徳次郎・喜志屋藤兵衛は、当初は株設立に消極的であったが、余儀なく八尾組・寺内組・八尾木村の問屋に同調し、その出願に発起人としてかかわることになった。
株設立の願書は、一一月一一日、大坂町奉行のもとで諸株の支配に当たっていた大坂天満組惣年寄に提出された。ところが、一二月九日王政復古の大号令、翌四年正月三日鳥羽・伏見の戦いの開始、同月九日大坂城の炎上、翌一〇日征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王の大坂進駐などの歴史的激変が続いた。このため、願書の処理は、同月二二日大坂における新政府の最初の地方官庁として津村別院に置かれた大阪鎮台、五日後の二七日にそれが改称された大阪裁判所に引き継がれた。この裁判所は、今日の司法裁判所とは異なるもので、当時は行政・司法の区別がなかったので、その両者を含む民政一般をつかさどる役所であったが、同年五月二日には大阪府と改称された。
閏四月、大監察使三条実美東下費として金五〇万両の御用金が、鴻池・三井・島田・小野らの豪商と諸商業株仲間に賦課された。同月二三日、大阪裁判所は、そのうちの三〇〇〇両納入を条件に、河内木綿株の出願に対し、旧来の株仲間同様の取り計らいを認めることとした。大和川を境として、北は八尾組・寺内組・八尾木村、南は富田林村の差配と決められ、さっそく河内全郡の株仲間名前帳を作成する作業が開始された。
大和川の南では、富田林村の木綿問屋三軒が「河内木綿屋仲間川南行司」を名乗り、五月一日、各地域のおもだった木綿商人を招集して人数取り調べの協力要請を行った。当日富田林に集まった人々からは「株カ無くても商ひハ出来ル」との反対意見が出たが、ほかにも、富田林・八尾の支配を警戒して行司役への参画を求めたり、国訴の発生を懸念する声が寄せられたりして、株仲間人数と御用金を確定する作業は難航を極めた。また、大坂上町毛綿中買組の「下組」であった讃良・茨田・交野三郡の木綿商人からは、株仲間加入を辞退する意向が伝えられた。
六月下旬には、ついに古市郡・丹南郡・丹北郡・八上郡の一一軒の木綿問屋から「破株」の出願が行われた。そして、七月二五日、大阪府地方掛は「御為筋不宜旨風聞有之事故、今日より御解放ニ相成候」と申し渡し、株仲間は、機能をなんら発揮しないままに、突如として解散することとなった。喜志屋藤兵衛の「筆記」の表現を借りると、「誠ニ長々之心労、一時之泡と消失」した次第であったが、地域的に多様な木綿商人を一つの株仲間に組織化することには、当初から無理があったと考えられる。藤兵衛は「株の無之方ハ第一家の為、次ニ国の為也、若後代木綿屋株抔申出仁有之共、決而取用間敷事、万一此株調候時ハ乱世也、此株之調ハさる時ハ治世也、修身斉家之道、只正直ニして商売を大切と存、働より外の道なし」と、富田林商人としての心構えを付記している。