町割りの概要

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宝暦三年(一七五三)の「富田林村絵図」(富田林勝山家文書)によると、村の概要は図22のとおりである。「南北弐町余、所ニ寄壱町余、東西三町余、所ニ寄弐町余」(富田林杉山家文書「様子明細帳」)という不整形な楕円が村域であった。興正寺別院を中心として、東西四二間、南北二〇間の街区を基本とする短冊型の町割りが行われ(水田義一「寺内町の建設プラン」(豊田武他編『講座日本の封建都市』一所収))、周囲の土居には竹が植えられていた。

図22 富田林村の概観 (宝暦3年)

 南北の通りを筋、東西の通りを町といい、南北には、東から東筋・亀ケ坂筋・城之中筋・富筋・市場筋・西筋の六筋、東西には、北から一里山町・富山町・北会所町・南会所町・堺町・御坊町・林町の七町が通じ、東西の通りに向かい合った家々が村内での町を形成した。なお、城之中筋は城中筋・城内筋・城之門筋などともいわれたが、現在は城之門筋の呼称が定着している。

 このような外郭や六筋七町の町割りは、寺内町として開発されたころのものといわれている。ところが、安永七年(一七七八)の絵図によると、南端に新たに一町が加わり、六筋八町になっていて、一八世紀後半に一町ができたと考えられる。しかし、享和二年(一八〇一)の「村方様子明細帳」(富田林杉山家文書)は、「当村町場と申ニ而者無御座候得共、竪横拾三筋御座候」と述べ、町の増加については触れず、横六筋・竪町七筋を書き上げている。天保一四年(一八四三)のそれにも、同じく六筋七町とあるが、「字東林町・字西林町、是ヲ林町と云、壱町丈ナリ」との注記が見受けられる。村運営の面で実質上意味を持っていたか否かは疑問であるが、南端に一町が増加したため、林町が東西に分かれていたことを知ることができる(近世Ⅰの3)。

 周囲に通ずる出入り口は、土居の北に一里山口・念西口・飴屋口・三昧口、西に新道・浄谷寺口・西口、南に向田坂・山家坂・亀ケ坂、東に山中田坂の合計一一を数えた。このうち、一里山口と向田坂は東高野街道と連なっていた。この街道は、山城国八幡(現八幡市)から生駒山地・金剛山地の西麓を南北に貫く河内国の基幹道路であり、富田林村からさらに南下して、錦部郡長野村(現河内長野市)で堺からの西高野街道と合流し、紀見峠を越えて紀伊国伊都郡橋本町(現橋本市)に至る。また、山中田坂と西口は富田林街道と連なっていた。山中田坂からは、石川を渡って葛城山と金剛山の鞍部である水越峠を越え、大和国葛上郡御所町(現御所市)に至る。西口からは、羽曳野丘陵の平尾峠を越えて八上郡長曽根村(現堺市)で竹之内街道と合流するものである。

 なお、高札場は、交通の要路である一里山口を入ったところ、一里山口町の東端に、亀ケ坂筋に面して設けられていた。これは、文字どおり制札を高く掲示した場所で、民衆に法令を周知させる簡便な手段として機能した。農村では、柵のなかに柱を立て横桟を通して高札を掛けたものが一般的であったが、富田林村においては、天保八年(一九三七)の村絵図(富田林勝山家文書)によると、積みあげた石のうえに屋根のある建造物が設けられており、かなり規模の大きい高札場であったことが知られる。

図23 富田林村高札場(再現)

 富田林村は、このように囲郭のなかで町割りがなされていた。その地区は、いま富田林町・本町となっているが、戦前・戦後を通して乱開発の波をかぶらず、以下述べるとおり、近世在郷町の景観を伝える寺院や民家の遺構が多く残され、落ち着いた風格のある町並みを見せている(以下、とくに断らない限り、林野全孝「富田林の町並み」(太田博太郎他編『図説日本の町並み』7近畿編所収)および『富田林寺内町歴史的町並み保全計画調査報告書』による)。