寺院の遺構

691 ~ 693

富田林村の寺院は、興正寺別院・妙慶寺・浄谷寺の三カ寺である。まず、寺内町創設のとき核となった興正寺別院は、城之中筋に東面して表門を構える。豪華なこの門は、安政年間に移築されたものであるが、桃山時代の遺構と伝えられ、町並みに重厚さを与えている。門を入ると、築地塀に沿って文化七年(一八一〇)に設置された鐘楼と太鼓楼がある。

 現存の本堂は、寛永一五年(一六三八)に「惣門徒寄進ニ而再興」されたもので、七間四方の身舎の周囲には庇が巡らされ、身舎は西内陣・東外陣に二分されて真宗様平面になっている。西側の内陣に本尊阿弥陀仏と親鸞上人像が安置されているが、その周囲や欄間の彫刻・彩色は元禄五年(一六九二)の改造によるものである。寛永年間に建築された寺院として、豪壮な桃山文化の風を伝える遺構である。本堂の北方には、文化七年に再建された書院と庫裡がある(図24)。

図24 興正寺別院平面図 『富田林寺内町歴史的町並み保全計画調査報告書』

 残る二カ寺は、近世に入ってから創立されたものである。このうち、興正寺別院の東側に位置する妙慶寺は、慶長八年(一六〇三)の創立といわれている。しかし、翌九年の検地帳である「富田林屋敷帳之事」(富田林杉山家文書)には記載がなく、同一三年のそれに二畝二八歩と書き上げられている(近世Ⅱの四)。その後かなり拡張されたようであるが、いま境内には、享保年間(一七一六~三五)に再建された本堂のほか、庫裡・太鼓楼・長屋が並ぶ(図25)。庫裡は新築改造されているものの、全体として近世寺院の面影が残されている。境内がさほど広くないため、本堂のすぐ裏の土塀は城之中筋に面し、その西側には別院の表門がある。

図25 妙慶寺平面図 図24に同じ。

 浄谷寺は、南会所町の西端に位置する。村絵図によると、外郭西方は急な坂になっているためか、土居が設けられていない。ここに石垣が積み上げられ、寺地が造成されている。天正二年(一五七四)毛人谷村から移転したと伝えられるが、慶長九年の検地帳には二一〇坪、同一三年のそれには四畝二四歩と記され、名称はともに「大念仏道場」となっていた。このときの敷地の大幅な縮小が何を意味するのかは、明らかでない。

 正式に寺院の建立が行われたのは、元和六年(一六二〇)のことであり、その後、寛文六年(一六六六)と天保年間(一八三〇~四三)に再建された。境内にあった観音堂と地蔵堂はすでになく、観音像・地蔵像は大正四年(一九一五)に建てられた二尊堂に安置されている。その厨子にある石造の地蔵菩薩は、「没故小比丘尼報恩覚霊位、応長元年(一三一一)歳辛亥六月廿七日造立、没故消戒真澄覚霊位」と刻まれ、大阪府重要文化財に指定されている。