寛永二一年(一六四四)の「家数人数万改帳」により、本章第一節において住民構成を見たが、ここでは、それにより民家の様子を概観する。三カ寺を除く全家数二八五軒を規模別に区分すると、表90のとおりである。表の横は桁行(けたゆき)(間口)、縦は梁行(はりゆき)の区分を示している。住宅規模の格差は極めて大きく、桁行には二間から一三間までの開きが見られる。おおむね桁行は、借家が二間・二間、下と評価された家が三間・三間半、中の家が五間・六間、上の家が六間以上に集中している。
梁行区分 | 2 | 2.5 | 3 | 3.5 | 4 | 4.5 | 5 | 5.5 | 6 | 7 | 7.5 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 12.5 | 13 | 合計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
間 | ||||||||||||||||||||
1.5 | 下 | 3 | 1 | 2 | 6 | |||||||||||||||
隠居家 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
借家 | 24 | 2 | 1 | 27 | ||||||||||||||||
その他 | 3 | 3 | ||||||||||||||||||
小計 | 30 | 3 | 3 | 1 | 37 | |||||||||||||||
2 | 中 | 1 | 1 | 2 | ||||||||||||||||
下 | 3 | 3 | 26 | 21 | 9 | 7 | 69 | |||||||||||||
隠居家 | 1 | 1 | 5 | 1 | 8 | |||||||||||||||
借家 | 27 | 3 | 29 | 5 | 2 | 66 | ||||||||||||||
その他 | 1 | 1 | 2 | 1 | 5 | |||||||||||||||
小計 | 32 | 7 | 61 | 30 | 12 | 7 | 1 | 150 | ||||||||||||
2.5 | 中 | 1 | 5 | 2 | 4 | 1 | 13 | |||||||||||||
下 | 1 | 1 | 2 | 2 | 7 | 1 | 14 | |||||||||||||
隠居家 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
借家 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
小計 | 1 | 2 | 2 | 3 | 12 | 4 | 4 | 1 | 29 | |||||||||||
3 | 上 | 1 | 3 | 2 | 1 | 7 | ||||||||||||||
中 | 1 | 4 | 1 | 12 | 18 | |||||||||||||||
下 | 2 | 2 | ||||||||||||||||||
隠居家 | 1 | 2 | 1 | 1 | 5 | |||||||||||||||
借家 | 1 | 2 | 1 | 4 | ||||||||||||||||
その他 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
小計 | 1 | 5 | 2 | 8 | 1 | 16 | 2 | 1 | 1 | 37 | ||||||||||
3.5 | 上 | 1 | 5 | 1 | 1 | 8 | ||||||||||||||
中 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
隠居家 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
小計 | 1 | 1 | 6 | 1 | 1 | 10 | ||||||||||||||
4 | 上 | 1 | 4 | 2 | 3 | 4 | 1 | 15 | ||||||||||||
中 | 1 | 1 | ||||||||||||||||||
小計 | 1 | 4 | 3 | 3 | 4 | 1 | 16 | |||||||||||||
4.5 | 上 | 1 | 1 | |||||||||||||||||
5 | 上 | 1 | 1 | 1 | 2 | 5 | ||||||||||||||
合計 | 63 | 10 | 65 | 32 | 9 | 17 | 27 | 7 | 32 | 7 | 1 | 3 | 6 | 0 | 2 | 1 | 1 | 2 | 285 |
注)近世Iの九により作成。
同表においてもっとも数が多い家は桁行三間、梁行二間のものであり、次いで二間と二間、二間と一間半、三間半と二間の家の順になっている。これらを含め、一〇坪未満で一室または二室しかない小規模な家が過半を超えているのは、当時すでに階層分化が著しく、下の家と借家が一八九軒を数えて全家数の六六・三%に達していたためである(第一節表71参照)。
中の家は、桁行・梁行ともにやや長くなり、四間取りが基本的な型であったと考えられる。昭和四〇年代の初めに撤去され現在は残されていないが、旧山原・錦家は、一七世紀中頃の四間取りの遺構を伝えるものであった。復元平面図は、図26のとおりであるが、桁行八間半のうち右の四間半が土間、左の四間が居室部分である。土間にはうちにわが裏まで通り、その右手には、表にしもみせ、裏にかまやが配されている。しもみせの上は中二階のつしがあり、かまやには、煙り返し梁がかけられている。
土間の広舗に接して整形四間取りの居室がある。表のみせ・ざしき(おくみせ)は、しもみせとともに接客空間であり、裏のだいどこ・なんどは、かまやとともに内的な生活空間として機能していた。なんどの閉鎖性を保つため、仏壇・床・棚がざしきとなんどの間に設けられ、なんどに半間突き出す形で納められている。また、広舗(ひろしき)と居室、およびみせとだいどことの境の開口には、板戸が必要以上に開かないよう突き止めの溝を掘った差鴨居が用いられている。差鴨居は、柱に枘(ほぞ)差でつないだ背の高い鴨居である。これらの特徴点は、まや(厩)がしもみせになっているのを別にすれば、寛永年間に建てられた周辺村々の農家の遺構と共通するもので、当時、富田林村の民家は、農家的色彩が極めて強かったことを示している。
しかし、近世中期以降、なんどが座敷と化したり、藁葺きから瓦葺きに変えて壁を塗り込めるなどの傾向が顕在化した。なかでも瓦葺きの普及は、防火面はいうまでもなく、町場としての景観にも大きな変化をもたらしたと考えられる。ちなみに、寛永二一年には、藁葺きの家が圧倒的に多く、瓦葺きは上の家で五軒、隠居家で一軒、借家で一軒、合計七軒しかなかった。ただし、付属家屋については、蔵が合計五〇のうち四六、酒部屋が合計七のうち四が瓦葺きであり、瓦葺きはまず蔵に導入されていたことが判明する(近世Ⅰの九)。
なお、宝暦三年(一七五三)の「富田林村絵図」(富田林勝山家文書)に記載された東西方向の各町の長さの合計は、一七町二九間四尺すなわち一〇四九間四尺である。これから南北に走る筋の道幅と三カ寺の敷地部分を差し引いた残余を一〇〇〇間と仮定すると、その倍の二〇〇〇間が民家を道の両側に桁を連ねて建てることの可能な長さになる。しかし、表90の各家の桁数を合計すると一一四三間であり、かなり余裕があったことになる。村内に点在する畑地がその主因であったが、屋敷地についても周囲に塀や垣をめぐらして若干のゆとりがあったものと考えられる。当時の景観は、農家的色彩の強い民家とあいまって、家々が軒を並べる町家集落とはいささか趣を異にしたと推測される。