現存する近世民家の遺構は、ほとんどが上の家である。表91はその一覧であるが、いまこれらが、点としてではなく面としての貴重な歴史的風致を形成し、地域社会形成上の独自性の一原点となっている。ここでは、そのうち建築年代がもっとも古い旧杉山家住宅と田守家住宅をとりあげ、ごく簡単に紹介することにする。
家屋名 | 建築年代 |
---|---|
旧杉山家 | 17世紀後半 |
田守邦之助家 | 18世紀前期 |
木口茂治家 | 18世紀中期 |
仲村誠一家 | 天明2~3(1782~83) |
橋本洋一郎家 | 18世紀後期 |
杉田賁至家 | 〃 |
岸田・三宅他家 | 〃 |
佐藤治男家 | 文政3(1820) |
奥谷清家 | 文政9(1826) |
奥谷ひさ家 | 19世紀初期 |
葛原茂治家 | 〃 |
袴谷・河合・三宅家 | 〃 |
葛原三千夫家 | 安政1(1854) |
上野東洋一家 | 19世紀中期 |
橋本憲一郎家 | 〃 |
注)『富田林寺内町歴史的町並み保全計画調査報告書』
杉山家住宅は、昭和五八年(一九八三)八月、富田林市に買収された後、同年一二月文化庁によって重要文化財に指定された。解体修理のうえ、同六二年一〇月から「旧杉山家住宅」として一般公開されている。屋敷は、東西約三〇間、南北約一七間と、一街区全体を占めるほどに広く、建物は主屋・土蔵・納屋各一軒、ほかに庭園がある。酒蔵や一部の土蔵が撤去されているなど、若干の改変が加えられているが、いまでも主屋を中心に近世の面影をよくとどめている。
主屋は、桁行が一二間にも達し、さらにその西に三室の書院座敷と茶室が連なる広大な構えである。近世に大規模な増改築が重ねられたことは、主屋内から発見された延享四年(一七四七)の祈祷札や文政一二年(一八二九)の加持棒により明らかである。当初は、図27の復元平面図のとおり、東側にみせ・なかのま・だいどこ、西側におくみせ・仏間・なんどと並ぶ二列六室の居室と、広舗を備えたうちにわ、さらに東側のしもみせとかまやからなっていた。仏間となんどは仏壇・戸棚を介して独立し、なんどへのだいどこからの入口には、一間に三本溝の鴨居がある。さらに、広舗とみせ・なかのまの境、なかのまと仏間の境などには、閉鎖的な柱間装置である突き止め溝の差鴨居が用いられている。この遺構は、一七世紀後半のものと考えられ、在郷町富田林の面影を伝える最古の民家遺構であるばかりでなく、全国的にもきわめて貴重なものである。
ところが、この原形の大幅な変化が天明五年(一七八五)の絵図により確認される。すなわち、現状平面図のとおり、かつて広舗とうちにわであった部分の表に八畳のげんかんと四畳の隣室、裏にだいどこおよびその裏方部分が設けられ、それに伴って、入口が東に移され、土間廻りも東方に増築されているのである。また、二室の書院座敷もこの絵図に描かれている。さきに触れた延享四年の祈祷札は、このような主屋の大改造と別座敷の増築に際しての鎮札(しずめふだ)であったと考えられる。しかし、別座敷は三室とも同時に建てられたものではなく、そのうち、長さ二間の大きな床の間が設けられている表の一二畳と、その北の数寄屋風の書院造である八畳の二室は一八世紀中ごろ以前のものと見られるが、その西側の大奥一〇畳半は、やや年代が下るらしい。これらの別座敷は主屋と巧みに結びつけられ、妻を重ねる外観は景観を際立たせる効果を発揮している。
田守家住宅は、興正寺別院の東北筋向かいに位置して一街区の半分を占め、主屋は南側の堺町通りに面する。敷地の北には、改変されているものの、木綿蔵・米蔵・衣装蔵なども残され、木綿問屋の屋敷構えをいまに伝えている。
図28のうち復元平面図のとおり、主屋は、桁行七間、梁行五間の規模を持ち、居室は整形六間取りである。平面配置は杉山家住宅とよく似ているが、仏間の上手には、主屋から直角に棟を出した角屋造りで書院座敷一室が設けられている。主屋のうち、六畳の仏間は仏壇と戸棚をなんどの方に突き出し、表四室の田の字形整形が保たれている。ほかにも、だいどことなんどの開口は半間の片引戸であること、みせ・なかのまと広舗の境には、杉山家住宅と同じく突き止め溝の差鴨居が用いられていることなどから、主屋の建築年代は一八世紀前期と推定されている。