市域の稲作の展開

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稲作は日本のもっとも基本的な農業生産の一として、古来から重要視されてきた。幕藩制社会にあっては領主財政を支えるものは、農民の生産する米穀であり、年貢米として農民が貢納したものであった。しかも、一定の土地の生産力を表示するとき、稲作の生産物たる米穀によってあらわす「石高」がとられていた。したがって領主にとっては、米作に従事する百姓は、まさに「国の本」であり、さまざまな百姓保護政策がとられた。また百姓は、生活の向上やゆとりを求め、農業技術の改善や農具の開発、品種の改良、金肥の多量の施肥などを実行し、生産力の向上に努力したのである。

 稲の栽培方法などについては村明細帳類に、耕作法の大意として、簡単に記されている。春の彼岸すぎごろに籾種をあつめて水に浸し、発芽を容易にし、苗代に蒔付ける。一反について、早稲は四升、晩稲は、三~五升ぐらいの割合という。四〇日ほどして「五月節ゟ半夏生」まで田植えをして植え付ける。それから一四~五日ぐらいから、一番草を取り、水を入れる。その後、七~八日目くらいに草取りをして、五~六番草まで、田の草をとると記されている。そして一般に早稲は旧暦七月上旬ごろから穂を出し、旧暦九月下旬ごろ刈取る。晩稲はもっとおそいか、旧暦一〇月中旬ごろ刈り取る。その間多くの人手が必要である。毛人谷村の場合を述べたが、新堂村や喜志村なども記されていることとは大同小異である(『富田林市史研究紀要』四、新堂平井家文書、近世Ⅰの四)。ほかに山中田村の場合は、明治二年(一八六九)の記事で、稲は五月節から夏至ごろまで田植えをし植え付け、刈取は一〇月ごろと簡略に記している(近世Ⅰの五)。稲の品種については表92を作成した。喜志村と新堂村とは、いずれも明和六年(一七六九)、毛人谷村は天保一四年(一八四三)である。早稲について喜志・新堂の二村落は、共通した品種である。毛人谷村は天保期であるが、彼岸早稲や近江早稲などはその名の示すとおり、早稲の品種であろう。晩稲は喜志村が多様な品種を記しており、新堂村とは渋餅が、毛人谷村とは箕うら(みのうら)が共通している。近隣の南河内諸村をみると、とそんど・大黒・しぶもちなどは同じ品種であり広い地域にわたって植え付けされていたことがわかる(『松原市史』一)。しかし、三カ村は石川谷の河谷平野部の左岸の近隣農村であり、上流地域の諸村落や、右岸の山手寄りの農村の場合は、ほかの品種が植付されていたかもしれない。かく、近隣村でも品種が多様であったのは台風や裏作、米の商品化などを考慮してのことであり、領主のきびしい徴税に対し生産力を向上して、百姓たちが、生活のゆとりを残す努力の現れと考えてよい。

写真185 田植の図(農耕絵馬より)
表92 稲の品種
村名 年代 品種名
喜志村 明和6 早稲 宮川わせ 白川わせ おいつこわせ
(1769) 晩稲 とそんど 石川おのへ 箕うら ほうねん丸 黒稲白絣 石割持 さとうもち 渋餅
新堂村 明和6 早稲 白川わせ おいつこわせ
(1769) 晩稲 はり柳 渋餅 山城みつほし
毛人谷村 天保14 彼岸早稲 近江早稲 大黒 しぶかわ
(1843) 稲荷 高砂 ミのうら 赤餅

注)各村落の村明細帳より作成。

 稲作の肥料は表93にまとめて記載した。肥料として主に、干鰯や油粕、胡麻粕や綿実粕などの金肥が使用されている。菜種から油を絞った菜種粕(または種粕)や綿の実から油を絞った綿実粕である。眞粉粕ともいう。値段で記され田地一反につき銀七~八〇匁を投入するような事例があった。肥料代の高下により変動もあったと思われる。なお、反当たりの稲の収穫量は、約一石五斗から二石ぐらいといわれている。次に稲の作付率である。元来、田は稲が作付されるのが原則であるが、有利な商品作物の綿が栽培されることが多かった。新大和川以南の南河内の地域は、稲と綿とが隔年交互して栽培される輪作地帯に属していた。近世前半期の稲の作付の具体的な数値は不明であるが、後半期にいくつかの事例が明らかであるので、それらについて述べよう。丘陵の多い加太新田は、地目の九〇%以上が畑などであり、明和六年で田方の稲の作付率は全耕地の中で、三・六%にとどまっている(表94)。市域南部で山間部農村たる甘南備村の幕領では、田方綿作が行われず、田方の作付は、三・六%の雑毛作を除き、残りの九六・四%は全部が稲作で、中稲と晩稲が植え付けられ、田畑全耕地からの比率は、七四・五%を占めていた。天明三年(一七八三)現在である(表95)。石川流域の平野部村落として、北大伴村を眺めてみよう(表96)。天明四年、田方のうち稲作は六三・三%で、残りの作付は木綿作と雑毛作である。稲作の占める割合は、あわせて五三・七%に達する。北大伴村は田畑輪換の綿作地帯に属する村落で、近隣村落と同様に稲作の漸増と綿作率の減少を招いたと思われる。さらに稲作を中心に、連続してその変遷がみられる村落に、板持村(錦部郡)と彼方村の二カ村がある。板持村は文化元年(一八〇四)、同八・一一・一二の各年の「御田地植付目録」が存在する。表97は図表化したもので田方と畑方とに分け、稲作の作付の変遷をみることができる。稲作は田方の約五〇%ぐらいを占め、その数値は終始変化しない。畑方を入れると、文化八・一一・一二の各年は、わずかに木綿作率を下廻る。錦部郡彼方村は、膳所藩領と狭山藩領との相給村落であるが、膳所藩領だけ、文化七年から慶応二年(一八六六)にかけ、田畑全体の作付を通じその推移があとづけられる。文化七年では五七%であった稲作の作付が、約四〇年経過した嘉永五年では六七・一%、さらに安政三年には七〇・七%と漸増し、慶応元年では六五・五%といったん減少するが、翌二年では七八・七%と増加している(表98)。

表93 稲作の肥料
村名 年代 肥料名 備考
新堂村 宝暦12(1762) 干鰯・油取粕・胡麻粕
寛政3(1791) 干鰯・油取粕・胡麻粕 田地1反ニ付代銀7,80匁
天保14(1843) 油粕・胡麻粕・干粕 1反ニ付代金40~80匁
明治2(1869) 油粕・干鰯
喜志村 明和6(1769) 種粕・綿実粕・鰯油取粕・胡麻粕・荏粕 3度使用
毛人谷村 天保14(1843) 菜種・綿実之油粕・焼酎粕・干鰯 1反ニ付代銀40~80匁
錦郡村 享和2(1802) 1反ニ付油粕7玉、干粕1駄
干鰯15貫
嬉村 享和2(1802) 1反ニ付種粕3貫500匁
7つから9つまで
彼方村 享和2(1802) 1反ニ付肥干粕1駄・油粕半駄
錦郡新田 享和2(1802) 1反ニ付種粕4つ 20匁
廿山村 享和2(1802) 1反ニ付油粕 50匁

注)各村落の村明細帳より作成。

表94 加太新田作付率

(単位は畝 括弧内は比率%)

年代 区分 田方 畑方 田畑合計
明和六・九(一七六九) 稲作 111.06 111.06 (3.6)
木綿作 1703.11 (56.8) 1703.11 (54.8)
雑毛作 1296.01 (43.2) 1296.01 (41.6)
111.06 2999.12 (100.0) 3110.18 (100.0)
明和八(一七七一) 稲作
木綿作 1708.18 (57.1) 1708.18
雑毛作 1285.08 (42.9) 1285.18
2993.26 (100.0) 2993.26
天明二・九(一七八二) 稲作
木綿作 2351.28 (80.1) 2351.28
雑毛作 583.27 (19.9) 583.27
2935.23 (100.0) 2935.23

注)『富田林市史研究紀要』3、付表1、岡本寅一『河内錦部郡加太新田の歴史』の表により引用作成。

表95 甘南備村(幕領)の作付率〔天明3年(1783)〕

(単位は畝 括弧内は比率%)

田方 畑方 田畑合計
稲作 1803.12 (96.4) ――― 1803.12 (74.5)
木綿作 ――― 40.13 (7.3) 40.13 (1.7)
雑毛作 67.13 (3.6) 510.18 (92.7) 578.01 (23.8)
合計 1870.25 (100.0) 551.01 (100.0) 2421.26 (100.0)

注)『富田林市史研究紀要』3付表2を引用。

表96 北大伴村の作付率〔天明4年(1784)〕

(単位は畝 括弧内は比率%)

田方 畑方 田畑合計
稲作 1616.08 (63.3) ――― 1616.08 (53.7)
木綿作 721.04 (28.2) 358.08 (78.4) 1079.12 (35.8)
雑毛作 217.17 (8.5) 98.19 (21.6) 316.06 (10.5)
合計 2554.29 (100.0) 456.27 (100.0) 3011.26 (100.0)

注)『富田林市史研究紀要』3付表3を引用。

表97 板持村の作付率

(単位は畝 括弧内は比率%)

年代 田方 畑方 田畑合計
文化元(一八〇四) 稲作 2329.08 (50.5) 484.21 (43.2) 2813.29 (49.1)
木綿作 2141.07 (46.5) 603.28 (53.8) 2745.05 (47.9)
芋作 41.20 (0.9) 33.06 (3.0) 172.10 (3.0)
たばこ作 97.14 (2.1)
合計 4609.19 (100.0) 1121.25 (100.0) 5731.14 (100.0)
文化八(一八一一) 稲作 2237.10 (50.0) 466.01 (42.5) 2703.11 (48.5)
木綿作 2131.00 (47.6) 597.00 (54.4) 2728.00 (48.9)
芋作 43.10 (1.0) 33.18 (3.1) 142.12 (2.6)
たばこ作 65.14 (1.4)
合計 4477.04 (100.0) 1096.19 (100.0) 5573.23 (100.0)
文化一一(一八一四) 稲作 2327.28 (50.2) 465.14 (42.5) 2793.12 (48.7)
木綿作 2228.26 (48.1) 595.00 (54.3) 2823.26 (49.3)
芋作 43.05 (0.9) 35.08 (3.2) 114.02 (2.0)
たばこ作 35.19 (0.8)
合計 4635.18 (100.0) 1095.22 (100.0) 5731.10 (100.0)
文化一二(一八一五) 稲作 2337.22 (50.4) 466.01 (42.5) 2803.23 (48.9)
木綿作 2228.21 (48.1) 597.00 (54.5) 2825.21 (49.3)
芋作 43.05 (0.9) 33.11 (3.0) 102.00 (1.8)
たばこ作 25.14 (0.6)
合計 4635.02 (100.0) 1096.12 (100.0) 5731.14 (100.0)

注)『富田林市史研究紀要』3付表4を引用。

表98 彼方村の作付率

(単位分米高石 括弧内比率%)

年代 稲作 木綿作 雑毛作 合計
文化7(1810) 224.184 (57.0) 137.329 (34.9) 31.749 (8.1) 393.262 (100.0)
文化12(1815) 220.735 (56.4) 137.500 (35.2) 32.868 (8.4) 391.103 (100.0)
文政8(1825) 224.003 (56.8) 137.500 (34.9) 32.868 (8.3) 394.371 (100.0)
嘉永5(1852) 262.713 (67.1) 110.353 (28.2) 18.190 (4.7) 391.256 (100.0)
安政2(1855) 262.196 (67.0) 114.200 (29.2) 14.860 (3.8) 391.256 (100.0)
安政3(1856) 276.596 (70.7) 99.800 (25.5) 14.860 (3.8) 391.256 (100.0)
万延元(1860) 280.896 (71.8) 95.500 (24.4) 14.860 (3.8) 391.256 (100.0)
文久元(1861) 278.396 (71.2) 98.000 (25.0) 14.860 (3.8) 391.256 (100.0)
慶応元(1865) 256.396 (65.5) 120.000 (30.7) 14.860 (3.8) 391.256 (100.0)
慶応2(1866) 307.988 (78.7) 71.000 (18.2) 12.260 (3.1) 391.248 (100.0)

注)『富田林市史研究紀要』3付表5を引用。