綿作の変遷

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綿は南河内地域の商業的農業を代表する農作物である。しかも、近世社会で民衆の衣料原料として、重要な地位を占めるものであった。

 木綿作の仕法については「村明細帳」に簡にして、要を得た記述がある。綿種は一反について種七~八升から九升ぐらい、八十八夜ごろに蒔き付け、真葉がでると、三、四本ずつ間引く。麦の畝の間に綿の実を蒔きつけるという。少なくとも半夏生または土用まで畦を修理し、草引きや綿木の真留めを四~五回実施する。開花は、種蒔き後約二カ月で、それから五〇日間経て実が吹き始め、実綿をつみとるが、これには最も多くの労働力が必要である。そのときの気候の具合で遅速があるとされている(『富田林市史研究紀要』四、近世Ⅰの四)。また優れた農書の一である大蔵永常の『綿圃要務』には、「河内国綿作りやう」、として、河内国若江郡・八尾、摂津国平野辺りや、「和泉国大鳥郡辺り綿の作り方」として、河泉の近隣の村々の事例を紹介している。

 綿の品種は「村明細帳」にくわしい。表99にはそれらを表示した。記載の品種はいずれも近隣諸村でその栽培がみられる、赤わた・黄花・鉄砲などの内、黄花は花が黄色で見事であり、赤わたもその品種は、河内で広く栽培されたという。また、土佐は朝鮮とともに文政・天保年間ごろから普及し始めた品種で、花白く、底紅で木肌が青く、桃(綿実)のつき方も多く、多収穫の品種で、糸の品質は中であるなどと紹介されている。元禄時代の『農業全書』には綿種としてかぐら・紅葉わた・大ごくび・ちんこ・のら・麻わたの六種にすぎなかったが、『綿圃要務』になると二三種があげられ、赤わた・てっぽう・黄花などがみられ、さらに天保期の地方文書には五〇種を超える品種が存在していたという(岡光夫「綿圃要務・解題」(『日本農書全集』一五))。

表99 木綿の品種
村名 年代 品種
喜志村 明和6(1769) 白耳・黄花綿・赤綿・つしひろ綿
新堂村 明和6(1769) (早綿)さんしょう・赤わせ
(晩綿)き花・鉄砲
毛人谷村 天保14(1843) 白花・黄花・赤わた
土佐・朝鮮種

注)各村落の村明細帳より作成。

写真186 綿を摘む図(『綿圃要務』)

 近隣の丹南郡茱萸木村では安永元年(一七七二)「白黄地」「赤綿」「辻黒」、岩室村では天保九年(一八三八)「黄白」「赤綿」「土佐綿」があげられている。古市郡古市村では、安永元年に「白花」「黄花」「赤綿」の栽培の記事が見える。白花・黄花などは富田林市域とも共通してみられる品種であり、このあと菜種などが蒔かれ、同じく「赤綿」などのあとは大麦が植えつけられたと記される(『狭山町史』一・『羽曵野市史』五)。

 綿作の肥料は表100のとおりである。干鰯・真粉粕・胡麻粕・綿実粕などを使用するが、反当たりの投入量が大きいことに注目しよう。たとえば新堂村や毛人谷村の天保一四年の事例では、同種類の肥料を、稲作の場合と比較すると、一反につき代銀四〇~八〇匁が、倍額以上の八〇~一五〇匁を使用する。狭山藩領の錦郡村・彼方村・錦郡新田村などの事例でも、同様な傾向を指摘できる。綿作が稲作に比して数倍の肥料代を必要としたことを、裏書きするものといえる。同時に、綿実の取り入れ時には稲作に比し多くの労働力が必須であった。

表100 木綿作の肥料
村名 年代 肥料の種類 施肥量と価額
新堂村 宝暦12(1762) 油粕・胡麻真粉粕 田地1反ニ付1駄~2駄
寛政3(1791) 干鰯・油取粕・胡麻粕・干粕 田地1反ニ付代銀7,80匁
天保14(1843) 干鰯・油取粕・真粉粕・胡麻粕 1反ニ付代銀80~150匁
明治2(1869) 干鰯・干粕・油粕
喜志村 明和6(1769) 上作人銀7,80~120匁
毛人谷村 天保14(1843) 油粕・焼酎粕・干鰯 1反ニ付代銀80~150匁
錦郡村 享和2(1802) 真粉粕・種粕 1反ニ付真粉粕15・6~20玉
   種粕13~4玉
嬉村 享和2(1802) 真粉粕 1反ニ付1駄ゟ半迄
彼方村 享和2(1802) 綿実粕 1反ニ付1駄
錦郡新田 享和2(1802) 真粉粕 1反ニ付銀50~70匁
加太新田 享和2(1802) 1反ニ付銀30匁

注)各村落の村明細帳より作成。

 綿作の作付率はどう推移したか。近世前期は不明である。近世後期の史料から考察すると、田方綿作で稲作と木綿作とを隔年交互していたこの地域では、田方綿作が五〇%というのが、一応の限界であろう。平均して三〇~四〇%ぐらいといわれている。綿作の作付率の推移を図表を通じて検討したい。加太新田村畑方で綿作が盛んで、約五六・八%、田畑両方で約五四・八%の高率である。畑方綿作はその後も進展をつづけ、天明二年(一七八二)には畑方の約八〇%と増加する。甘南備村は、畑方のみ綿作が行われ、天明三年では、七・三%にすぎず、全体では一・七%の低率である。また、佐備村では天明六年から文化六年(一八〇九)までの貢租関係の史料などから、その年の作付高と木綿作付高の変遷をたどることができる。田畑ごとの内訳については不詳であるが、天明六年現在では作付面積の一〇・九%の植付があった。以降、寛政年間まで同じく九~一〇%前後で推移する。一九世紀に入り享和~文化年間ごろでは、七・八%と漸減している。綿作の漸減的衰退を物語っている(表101)。平野部の北大伴村は、天明四年では田方綿作が二八・二%で畑方では約七八・四%であるが、田畑全体では三五・八%の綿作がみられる(表96)。数カ年にわたり綿作の作付率の変遷を知りうる村落に、前述した錦部郡板持村がある。文化元年から文化一二年までの変遷がわかる。田方綿作は四六・五%から、四八・一%と漸増し、畑方綿作は五三・八%から五四・五%となり固定化の傾向がみられる。田畑合計では四七・九%から四九・三%と僅かながらの増加がみられる(表97)。錦部郡の彼方村(膳所領)は既述したように、文化七年から慶応二年(一八六六)までの、約五〇年間にわたり、稲作・綿作・雑事作の変遷をあとづけることができる。木綿の作付は文化~文政年間は三五%前後から、三〇年以上経過した安政~万延年間には、二五%前後と約一〇%も減少する。のち、慶応元年には約三〇%に回復するが、慶応二年には一八・二%と二〇%台以下にまで激減する(表98)。稲作・木綿作の隔年植付の輪作地帯一般にみられるのと同一の傾向であるといえる。綿作が衰退する理由として、諸先学により指摘されるように綿作は天候により、収穫の豊凶の差が著しいこと、農業経営に於て肥料代や労賃の高騰で一九世紀以降になり、米価と綿価のバランスが崩れ、綿作の有利性がなくなること、延享年間以来、幕領では、田方木綿作勝手仕法により、凶年でも減免されぬことによりその打撃を受けたことが、一般的に承認されている。

表101 佐備村の木綿作付率
年代 毛付高 木綿作付高 木綿作付率 依拠史料
天明6(1786) 833.236 91.008 10.9% 「木綿細見御願帳」
天明8(1788) 906.956 86.174 9.5% 「木綿細見御願帳」
寛政5(1793) 903.173 85.556 9.4% 「綿作御細見願帳」
寛政6(1794) 863.361 91.661 10.6% 「木綿細見御願帳」
寛政9(1797) 909.587 87.952 9.6% 「綿作細見御願帳」
寛政12(1800) 902.127 80.873 8.9% 「木綿細見御願帳」
享和2(1802) 921.546 72.521 7.8% 「木綿細見御願帳」
文化5(1808) 882.062 70.158 7.9% 「綿作細見御願帳」
文化6(1809) 917.262 67.1145 7.3% 「綿作細見御願帳」

注)毛付高は各年の「免相之事」、「免相事」による。佐備道旗家文書により作成。