近世に入り製油原料として荏胡麻・木の実などに代わって、菜種・綿実が用いられた。製油器道具として油しめぎを使って製油する新しい技術が考案され、クサビを利用した圧搾機であった。これにさらに工夫を加えたのが立木であり、立木の技術は摂津国遠里小野村で、わが国で最初に誕生しとされる(津田秀夫「燈油」(『講座・日本技術の社会史 一 農業・農産加工』所収))。すでに慶長・元和のころから、畿内・中国地方を中心に、菜種の栽培がしだいに行われてきた。幕府は、寛永末年畿内の幕領を対象とし、油の原料たる菜種の栽培につき禁令を出したほどである。
菜種の栽培は「山中田村明細帳」には、「菜種者八月ニ種蒔付、十月十一月ニ植付、翌五月ニ取入申候」と簡潔に書かれている(近世Ⅰの五)。秋の彼岸前ごろ種をまき、苗の植付は五〇日ほど経過した後で、翌春花が咲き一カ月ほどして刈り入れる。その間に三~四回肥料を施すが、嬉村の事例では、種肥を一反に一〇箇投入する(近世Ⅷの二)。収穫は反当り一石~一石五斗ぐらいで値段は一石当たり四〇~六〇匁ぐらいといわれる(『松原市史』四)。
水田の裏作として菜種は、野菜としてのほかに、その種子は灯油や食品加工用の原料(絞草)となり、絞り粕は肥料として需要されたので、綿作につぐ重要な商品作物であった。しかし、その売買と絞油業につき、幕府は江戸における御用油の確保上、強い統制を加え、寛政年間から大坂近郊の村落ごとの菜種の産額と売捌先を、報告させている。
麦の作付については「稲作刈取次第ニ蒔付、翌年五月節句前後ニ刈取申候、其年之旬ニより少々之日限相違仕候」と、簡単に記されている(新堂平井家文書「新堂村明細帳」(明和六年))。
百姓の主食である麦は、稲の裏作で、また、味噌や醤油の原料として、牛馬の飼料としても重要な農産物であった。麦作は稲や綿のあと牛を使い耕し、鍬で三、四回もていねいに土を切り返して畦を作り、一反に種五、六升ずつ秋の土用すぎに蒔き、あと数回畦の手入れをする。節分を過ぎ約一一〇日ぐらいで刈り取るとされる。冬期中に麦の徒長の防止のため、どこの地方でも麦踏みが行われたといわれる。肥料は、種粕、綿の実粕、鰯油取粕、胡麻粕、荏粕などを用いた。当市域内に栽培されていた麦の品種や、反当収量については、よくわからない(『富田林市史研究紀要』四)。
麦のほか雑穀類として市域に多くの作物類が植えられた。稗・粟・黍などがそれで、いずれも八十八夜前後に、交互に種五升ほど蒔き付け、二一〇日前後に刈り取ると記されている(同上)。彼方村では畑方に木綿を植え付けるが、三年に一回は粟・黍などを栽培するとある。おそらく地力の維持・回復をねらい、連作をさけたものと思われる。そのほかに煙草(多葉粉)がある。煙草は商品作物の一として、広く河泉丘陵の村々で栽培された。隣接の狭山地方では近世前期の元禄期を中心に、かなり盛んで利益も多かったといわれる。土質は上田には適せず、「白地のはね土まじり、あるいは砂地のよろしからぬ地」が適していた(『狭山町史』一)。植付けのことは「多葉粉は壱反ニ付苗ハ九十本も蒔付、八十八夜後ニ植付土用後ニ取込申候」と述べられており(新堂平井家文書)、錦郡新田や加太新田においては、前者には田方作物として木綿・多葉粉と併記され、「多葉粉、真粉粕三十匁」と肥料まで書き添えている。また加太新田では、畑方作物として、木綿・大豆・多葉粉が記されている(近世Ⅷの四・六)。煙草は板持村の田方でも植え付けられ、文化元年(一八〇四)は田方の約二・一%であったが、同一二年には〇・六%にまで低下している。なお、煙草は『河内志』に龍泉村産出の品がもっともよいとされ、楊梅子も甘南備村が佳良の品を出すと紹介している。
また、富田林村にぶどう栽培が行われていたことにふれておこう。『和漢三才図会』を始め『河内志』『河内名所図会』には、いずれも富田林村の産物として記載され、『和漢三才図会』には、山梨・静岡についで富田林村のぶどうが美味と述べている。『河内志』には河内の土産として記録されるが、『河内名所図会』には富田林村興正寺御堂の部分に、「此地葡萄の名産」と記載している。そして「又、名産葡萄は農家の前裁に棚作り、多く栽る。初秋の頃は、鈴の如く生て市に出す。其味、他にまさりて甘美也。葡萄酒も此地の名産としらる。風土の奇也。」とかなり具体的に特産品として紹介し、ぶどうを栽培しぶどう酒に加工していたとしている。『大阪商業史資料』二五巻所収の「大坂天満青物市場年暦沿革」によると、明和八年の記事に、富田林・台ケ塚(大ケ塚)・甲州・江戸の産出のぶどうを、市場の問屋が取り扱っていたと報告されている。また、富田林杉山家文書の「年中録」にも、寛政三年(一七九〇)七月二七日、大坂、堺など二五名にぶどうを進物用に供していたという。これらは、農家の庭先などに日陰樹として僅かな本数が植え付けられ、珍重な果物として商人に高価で販売したり、贈答用進物に供した程度で、広く商品生産として本格的に展開したものではなかったらしい(小寺正史『大阪府におけるブドウ栽培の歴史的変遷に関する研究』)。