木綿織りと流通

715 ~ 717

南河内における綿作の展開にともない、農民の間には副業として綿繰りとともに木綿織が普及してきた。「是ハ(木綿機)壱軒別ニ三機より五機位迄ニ御座候」(北大伴三嶋家文書)とあるように農家一軒に数機ずつ所有していた。河内木綿は丈夫で諸国の間で重宝された。各村で共通するのは、女性の手による木綿織であり、「村明細帳」などにも広く記載された。木綿織は農閑期や夜なべ(夜間の副業)で、女性の手仕事であった。一人で二日半に一反という割合が最高であり、奉公人の給銀にも、白毛綿織を三日間で織り上げると給銀の最高が支給されたという。

 こうした農民の手になる繰綿や木綿がどのような経路で流通したかは、不明の点が多い。いうまでもなく富田林村には、近世前期から木綿の遠隔地商業に従事し、近江に木綿を販売する商人があった。宝永七年(一七一〇)には三軒の木綿問屋が設置されたというが史料的には疑問視されている(『富田林市史研究紀要』三)。幕末期には、黒山屋三郎兵衛、仲村屋徳次郎、喜志屋藤兵衛の三人であった。これらとは別に、南河内の在村では、仲買的な商人が居住し、周辺の農民から、木綿を集荷し、大坂市中の問屋などと取引を結んでいたと思われる。こうした事例として、市域ではないが、近隣の道明寺村の山脇家について若干ふれておこう。山脇家は幕末に庄屋をつとめ、村外にも土地を所有する自作地主であった。嘉永ころで自作地一町余、貸付地一町ほどと推定されており、木綿仲買としての規模も、だいたい三〇〇〇反を前後しており、弘化から明治初期に及んでいた。嘉永三年(一八五〇)の集荷範囲は、石川の支流に沿い、駒ケ谷・大黒・東山諸村の方面と、石川本流の古市・碓井・誉田から、新家・喜志・新堂・富田林の諸村などにまで及んでいた。同年の史料から市域にある集荷の村々を拾ってみると左のごとくになる。なお史料としての、嘉永三年木綿買日記の記載は一年を通じ完全な史料ではない。喜志村四人二一四疋(一疋=二反)、川面(かわづら)二人六九疋、南新家一人一六疋、新堂一人一五疋、北新家二人六疋、大深(おおぶけ)一人二疋、富田林一人二疋、中野一人一疋などがあげられる。

 同年山脇家に木綿を売却したものは、①小商人、②比較的大きい生産者、③零細な生産者の三種から成り立つという。①の小商人は道明寺村から五、六キロ離れて、南の東山・山田・太子など、比較的遠方の村々のものである。取引は現金払いである。次の②は、比較的大きい生産者と思われ、石川の本流に沿って、古市・喜志の諸村・新堂などの方面に広がっていて現金取引である。前者の相違点は、一回の売込額は少ないが、その売込回数は多いという。七人を数え、古市村友右衛門は一七六疋と、最も多く売り込んでいる。その他は喜志村の治、藤、中三と記号で記された者からそれぞれ八三疋、九七疋、二二疋、川面村は清七三四疋、太郎兵衛三五疋および新堂村徳兵衛一五疋とそれぞれ比較的に大きい生産者と推定される。市域の富田林村より以北で、石川本流に沿った村々であった。③の零細な生産者は、すべて三〇疋以下の売込みで、しかも、一回の売込額は一~二疋程度であり、農家の副業としての木綿織であった。それは、現金取引のほか、綿・金・肥料・その他の前貸をうけて木綿を売り込んでいる。こうして集荷した木綿は、大坂・八尾・久宝寺・恩知などの木綿問屋に売り込まれたのであった(中村哲「河内における在方木綿商人」『日本初期資本主義史論』)。