菜種作の具体相については明らかでない。各村々では、田方の夏作は稲または木綿、冬作は菜種または麦という組合せが多かったと思われる。化政期から天保期にかけ、一村ごとの生産高と売払先の判明する事例をあげておく。富田林村の文政八年(一八二五)の場合は、一一四・九五三石で、その売払先は同村内の人力絞油屋長右衛門のほか、吉兵衛、伊右衛門、新兵衛、亀吉であり、長右衛門へ二六・八石余約二三%が売り払われる。ほか同村内の吉兵衛以下四人への売払高とあわせて、全体の約九三%ぐらいを占める。村外へは、向田村忠五郎へ六・五%が売却された。この年の売却はその大部分が自村内であった(表102)。錦郡村の狭山藩領の事例は文政一〇年(一八二七)から、同一一・一三および天保二年(一八三一)・三年の五カ年分がわかる。各年の生産高は四二石から六七・五石とばらつきがある。売捌先については、同村の同領内の油屋藤蔵および清兵衛がもっとも多く、三九%から五〇%以上に及び、これに同村膳所藩領の油屋藤右衛門へも、約四%から一四%ぐらいと恒常的に売却されている。そのほかは村外であり、富田林村油屋文七のほか新兵衛にも売り払われている。向田村忠五郎へは、年により約四%から二二%と上下はあるが、売却がみられる。天保三年(一八三二)七月の報告では、四里も離れた堺の泉五郎へ一〇石と、まとまった売払いをしているのが注目される(表103)。
生産高 | 売払先 | |||||
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富田林村人力絞 | 同村吉兵衛 | 同村伊右衛門 | 同村新兵衛 | 同村亀吉 | 向田村 | |
114.953 | 長右衛門 | 忠五郎 | ||||
26.853 | 38.35 | 8.65 | 18.7 | 15.0 | 7.4 | |
(23.5) | (33.3) | (7.4) | (16.3) | (13.4) | (6.5) |
注)近世Ⅴの1の三より作成。
年月 | 生産高 | 売捌高 | 備考 | |||||
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文政10.閏6 (1827) |
49.94 | 錦郡村油屋藤藏 | 同村油屋藤右衛門 | 富田林村油屋文七 | 同村油屋新兵衛 | 向田村油屋忠五郎 | 小前所持 | 去戌残り菜種2.7石不残油屋藤蔵之売払 |
29.79 | 2.15 | 6.2 | 1.5 | 5.6 | 4.7 | |||
(59.7) | (4.3) | (12.0) | (3.0) | (11.2) | (9.4) | |||
文政11.6 (1828) |
63.8 | 油屋藤藏 | 油屋藤右衛門郎 | 油屋忠五郎 | 小前所持 | |||
25.0 | 6.4 | 14.4 | 18.0 | |||||
(39.2) | (10.0) | (22.6) | (28.2) | |||||
文政13.6 (1830) |
67.5 | 油屋藤藏 | 油屋藤右衛門郎 | 油屋忠五郎 | ||||
58.3 | 6.2 | 3.0 | ||||||
(86.4) | (9.2) | (4.4) | ||||||
天保2.6 (1831) |
52.5 | 錦郡村油屋清兵衛 | 油屋藤右衛門 | 油屋新兵衛 | 油屋忠五郎 | |||
30.1 | 7.8 | 9.0 | 5.6 | |||||
(57.3) | (14.8) | (17.2) | (10.7) | |||||
天保3.7 (1832) |
42.0 | 油屋清兵衛 | 油屋藤右衛門 | 油屋忠五郎 | さかい泉五郎 | |||
20.0 | 5.0 | 7.0 | 10.0 | |||||
(47.6) | (11.9) | (16.7) | (23.8) |
注)近世Ⅴの1の四より作成。