石川郡新堂村は幕末期村高一七二七・六三石の大村で、その村内を南北に通ずる東高野街道により、富田林村寺内町へと通じている。この新堂村は、東西に走る四本の道路にそって、北から、北町、会所町、庄屋町、そして南町の四町と、その東南部に大工町の一画があった(「石川郡新堂村百姓屋舗絵図」(享保一五年))。この町割は現在でもよく残っている。この新堂村の成立について、現地の史料など欠除のため不明確な点が多い。新堂大工村の成立については、一説として、河内国上太子村の聖徳太子御廟の建築に関係した大和の大工の六人が、石川里字里田に居を定め、六人衆と称して大工を本業とし、大工村と呼び独立村を形成したが、新堂村の成立とともに合併したと伝えている(南河内郡東部教育会『郷土史の研究』、新堂高橋家文書)。一つの伝承的記述にすぎないが、分析・検討すべき点を残しているといえる。
近世に入り京都の中井役所支配下にあった畿内と近江の六カ国大工組は、江戸時代の六カ国における禁裏・社寺・民家などの建築を、支えた職人である大工の地縁的な集合体であった。こうした大工組は江戸時代初期から成立していたと考えられ、河内国では六組の存在がたしかめられている。新堂組・古橋組(茨田郡壱番上村)・柏田組(渋川郡柏田村)・豊浦組(河内郡豊浦村)・太平寺組(大県郡太平寺村)・額田組(河内郡松原村)がそれであった。
新堂村はこのような新堂組の中心的な村落で、新堂組組頭をつとめた平岡作左衛門、平岡完左衛門、久保弥三右衛門などが居住していた。平岡作左衛門による新堂組大工支配は、宝永七年(一七一〇)から一八世紀を通じて継続し、享和二年(一八〇二)から平岡完左衛門に移り、文政三年(一八二〇)までその名がみられ、文政七年から新堂組組頭平岡完左衛門の代わりに、それまで年寄をつとめていた嘉右衛門と弥三右衛門の両人が年寄のままで新堂組代表をつとめた。そして、安政二年(一八五五)には、石川郡新堂村の弥三右衛門と、丹北郡松原村利助の二人の与頭が支配する形態をとった。新堂組の支配範囲は相当広く、石川郡をはじめ錦部・丹北・古市・丹南の諸郡にまたがっていたらしく、文化九年(一八一二)の史料にも「摂河両国十郡」とあり、前記六郡以外に、志紀郡・八上郡・安宿部郡・大縣郡と摂津住吉郡とに及んでいたと推定されるという。その後、新堂組は二人の組頭による分割支配に移るが、他の一方の組頭丹南村吉兵衛支配下の大工は、前述した摂河一〇カ国からいくつかの郡村を自己の支配に組み入れられた形となっている。このように新堂組は多人数で広域支配大工組であったが、世襲組頭平岡家の退去の後も、組頭の下にあった二人の年寄がそのまま新堂組を支配し、表向きの組分立にいたらず、両人による分割支配も明確な郡別地域別支配でなかったとされている(吉田高子「江戸時代中後期における六カ国農村大工組について」(川上貢編『近世建築の生産組織と技術』所収))。
前述したように、新堂村大工組についての史料はほとんど見当たらず、その活動を物語る史料に接しないが、近世後半期から明治二年にいたるいくつかの村明細帳が残っている。これらを使い村の家数・人数や職人の種類と変遷などをたどって、表104を作成してみた。こうした職人は、あくまでも農業との兼業である旨が記されている。なお、京都の中井大工頭の支配に属する五畿内・近江の大工・杣は禁裏および将軍家の普請造営のときに臨時に徴発され、勤める義務を負わされていたが、その持高に対しては諸種の夫役・雑役免除の特権を与えられていた。これは大工高であるが新堂村の場合、三七五・一二七石であった。
大工組頭 | 大工 | 木挽組頭 | 木挽 | 医 | 紺屋 | 屋根葺 | 瓦師 | 鍛冶屋 | 籠細工 | 家数 | 本家 | 人数 | 男 | 女 | 庄屋年寄名 | |
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宝暦12 (1762) |
1 | 60 | 1 | 5 | 2 | 1 | 2 | 1 | 10 | 316 | 304 | 1426 | 719 | 707 | 正藏、権蔵、安右衛門、忠右衛門、七郎兵衛、仁左衛門、惣左衛門、源兵衛 | |
明和6 (1769) |
1 | 30 | 1 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 20 | 352 | 345 | 1373 | 690 | 783 | ||
明和9 (1772) |
1 | 30 | 1 | 5 | 2 | 1 | 1 | 1 | 20 | 364 | 357 | 1384 | 696 | 688 | 利右衛門、四郎兵衛、吉兵衛、庄左衛門、七郎兵衛、五兵衛、仁左衛門、惣左衛門、源兵衛、七兵衛 | |
寛政3 (1791) |
1 | 31 | 1 | 6 | 1 | (酒造)1 | 1 | 1 | 40 | 利右衛門、十蔵、太兵衛、庄左衛門、政右衛門、次郎兵衛、権右衛門、仁右衛門、半兵衛、小左衛門 | ||||||
文政11 (1828) |
2 | 25 | 1 | 1 | 1 | 1 | (左官)1 | 1 | 80 | 323 | (百姓)307 | 1082 | ? | ? | 彦左衛門、四郎左衛門、徳治郎、儀右衛門、政右衛門、藤右衛門、小兵衛、儀左衛門 | |
天保14 (1843) |
2 | 20 | 1 | 1 | 1 | 1 | 95 | 277 | 266 | 956 | 523 | 433 | 庄左衛門、四郎左衛門、太蔵、儀右衛門、(年寄名記載なし) | |||
明治2 (1869) |
2 | 13 | 1 | (油稼)1 | 1 | (古手古道具)1 | (農かじ)1 | 90 | 270 | 261 | 932 | 501 | 431 | (西田)儀助、(平田)亀三郎,(平井)四郎次、(高橋)利左衛門、庄左衛門、儀左衛門 |
注)新堂村各年の村明細帳より作成。
表104をみると、大工組頭は宝暦一二年(一七六二)には一名であったが、文政一一年から二名となる。これは前述したように、大工組の組頭が文政ごろから二人となり相勤めたことと一致するものである。大工は宝暦一二年では六〇人であったが、時代が降るにつれ、三〇人から二五~二〇人と漸減をかさね、明治二年には一三人となる。。明治初期の史料によると、名前が判明する。すなわち興左衛門・宇吉・庄次郎・彦兵衛・忠蔵・定吉・弥三右衛門・亀次郎・伊右衛門・治兵衛・茂左衛門・弥兵衛・与左衛門・重太郎の合計一四人の大工の名前が記されている(新堂平井家文書「新堂村大工職名前帳」(明治五年))。木びき組頭や木びきは、組頭は一名であるが、木びきは五~六人から一人へと漸減するのも、大工減少の方向と一致している。左官・屋根葺・瓦師・鍛冶など大工仕事と関係深い職人がみられる。なお、村の特産品たる籠細工などの従事の職人数は、宝暦一二年ごろ一〇人であったが、二〇人から四〇人、さらに八〇人と増加、天保一四年には九五人を数え、副業として重要な地位を占めることを示すものであろう(新堂平井家文書「新堂村明細帳」(宝暦一二・明和六・同九・寛政三・文政一一・天保一四・明治二))。
新堂組大工組頭の活動を示す一端として、次のような事実がある。富田林村寺内の妙慶寺は享保二年(一七一七)に、本堂・庫裏・廊下・茶所・火番家・長家の修覆を計画し、奉行所へ申請、許可の後、享保五年に修覆に取りかかった。本堂については柱をほとんど取り替えるなど新築同様の工事であり、享保五年九月改めて新築の普請願書を提出した。それは新堂村大工の六人が名を連ねている。彼らは仕事のうえで、相互に協力していることを示す。妙慶寺本堂の作事に関係の六人の新堂村の大工のうち、五兵衛・五郎兵衛・藤兵衛・徳右衛門は、吉田高子氏の研究によると、その名を新堂村大工町内に見出すことができるとされている。しかも、これらの大工たちは、石川(のちの新堂組)大工組に所属していたと考えられる。また、錦郡村居住の持高二五石の百姓の三郎右衛門が、自分の居宅たる梁行四間と桁行九間の家屋に一間の庇付藁屋根の建直しを実施した。文化一四年九月二六日のことで、村役人と家主双方で領主たる旗本甲斐庄氏に願い出た。そして別に、新堂組大工で組頭平岡完右衛門に、許可を申し出た。京都の中井藤三郎の中井役所から許可の旨連絡があり、摂河両国十郡大工支配の組頭平岡完左衛門から、普請主三郎右衛門へ申し渡した。組頭平岡完左衛門が、摂河両国十郡大工支配者として、大きな勢力を持ったことを物語る(錦郡大松家文書)。彼方村(膳所藩領)でも、安政五年一一月二二日、持高一四・五石の新五郎が、居宅を新築することになり、家屋の図面を付加して、村役人の連絡で中井大工役所と支配領主へ申請し、新堂大工組頭弥三左衛門を通じて行っている(彼方中野家文書)。