近世において市域には、南北を縦貫している街道として、東高野街道があり、これと交わる街道として、丹南郡の平尾村から東進し来たる喜志街道と、同じ平尾村から東南の方向に進む富田林街道があった。後者は石川を渡って千早方面へと街道が通じていた。また、和泉の槙尾山方面から来たり、東高野街道の一部と重複しながら北進し、藤井寺方面へと向かう「巡礼街道」があった。以上の諸街道は、天保八年(一八三七)「石川・安宿部・古市郡絵図」(巻頭図版参照)にはいずれも記載され、幹線の東高野街道や、古市村の対岸から分かれ南下し北別井・南別井両村を通り、水分村にいたる街道は太い赤線で記され、その他はいずれも細い赤線で描かれている。
東高野街道などは五街道や脇往還の一部ではないので、大名の参勤交代や上使の通行を始めとした公用の旅行者で賑わうことはなかったが、地域の人々の社会生活上の往来や、高野山・吉野山・大峯山・伊勢参宮への参詣の道として、西国三十三カ所観音霊場への巡礼の道として、いわば「生活の道」「信仰の道」として、地域の人々のみならず、全国各地からの寺社・名山への参拝の道として広く利用され、近世後期にはとくに往来が盛んであった。ここでは以上の諸街道につき、途中の道標や石造記念物などにも留意しながら、ふれてみたい(図29)。はじめに東高野街道につき述べてみよう。