東高野街道は、京の都から高野山への参詣の陸路として発達した。山城と河内との国境を越え河内に入ると、生駒山地の西側の麓を南進し、大和川を渡って国府村から古市村などを経て市域に入った。街道に沿い東坂田村との境の道端に①御神燈と②小祠がある。前者には「文化二乙丑年正月吉祥日」とあり、「寄進銘々、家内安全、願主氏子阿波屋庄助」と読める。街道は喜志大深の西側を南へ進み、喜志桜井村に式内社下水分社(美具久留御魂神社)への参道口があり、鳥居が立っている。参道北の三角地は御旅所となっていて、大きな板石が据えられている。この辺りに弘法井戸の名残りがあり、桜井の村名の名残りをとどめている。また、この付近の街道脇には、③桜地蔵尊と呼ばれる小祠がある。粟が池を西にみて中野村に入り、④地蔵祠があるが銘文は明らかでない。つぎに新堂村へと向かう(図30)。新堂の旧集落には、整った碁盤目の地割りが残り、街道はその中心を南北に、まっすぐ貫いていて、その北と南の入口で道は少し鍵形に屈曲している。道路は遠見遮断となっていて、あてまげが存在し、東西の道の両側で区画ができ、一つのまとまった町ができている。新堂村の北の入口付近に⑤小祠があり、中には板碑状のものが祭られている。その前の台には「奉納世話人」「嘉永二年酉四月」と読め、人名が二カ所の面にあわせて一〇人ほど記されている。地元では地蔵尊と呼んでいたという。このほか少し南に⑥地蔵尊を祭る小祠や⑦役行者の小祠が建てられている。ほかに庄屋町には⑧大神宮燈籠が存在している。
新堂村から富田林村寺内町への道は、新しい住宅地の造成のため、具体的にはたどれない。寺内町に入り、町の北端で⑨高札場跡と思われる所を過ぎ、道は細かく鍵形に屈曲する。東高野街道は亀ケ坂筋から堺筋に入り、興正寺別院の北をぬけ、富筋を南に進み、有名な「くわえきせる無用」の刻銘ある⑩道標の辻を西にとり、向田坂を下り谷川町へと出る。
寺内町を通過し北甲田村の集落を過ぎるが、途中の道沿いに、側面に「天満宮」、台石に「手習中」と刻んだ⑪太神宮燈籠がある。南甲田村に入り西南の方向に進む。付近の宮甲田村には⑫太神宮夜燈があり、「明和六年[ ]甲田村」と読める。傍らには⑬地蔵尊小祠がある。別に岩井芝とよばれた新家村は、南側で錦郡村に属する字(あざ)芝村と境を接し、ほとんど一体となった集落を形成しているが、その集落内にはいくつかの石造記念物が存在する。まず新家村側に「岩井村」と読める刻銘のある⑭太神宮夜燈があり、近傍には⑮地蔵尊が安置されている。錦郡芝村にも⑯太神宮夜燈があり、「安永四乙未十一月□日」と刻まれている。
ここから錦郡村にいたる東高野街道は、平野部を直進する道と、村の集落内を通過する二つの道が存在したと思われる。村の中を貫通する道には、「文化十一甲戌年三月建立」と刻まれた⑰大峯三十三度行者供養塔がみられる。より東側のバイパス的な道筋には、立派な⑱道標が存在する。四面には「すぐまき尾山」「堺発起神南辺施主何某」「すぐふじゐ寺」「右瀧谷山江十丁」と、それぞれ刻まれている。堺の神南辺大道心の名が見えるが、自らの犯した殺生の罪業をつぐなうために、発起したことであろう。道標をたて世の人々に便宜を与えたのであった。この道標からやや北の街道沿いに、役行者のレリーフの刻まれた⑲大峯三十三度行者供養塔がある。万延元年(一八六〇)八月の銘があり、正面に「大峯三十三度講願塔、先達喜宝□」、左面に「すぐ山上道」と刻まれており、大峯山(山上ケ岳)への道標を兼ねたものとなっている。なお、錦郡村の集落のはずれに地蔵尊を祭る小祠が二つ街道沿いに並んでいるが、北側はほこら全体が木造で⑳「脳天地蔵」と呼ばれている。またその南隣の㉑地蔵像には「正徳四年□二月日、石工大坂岩□□七兵衛、為菩提[ ]」と刻まれているのが読める。さらに街道を南にとると、道の傍らに㉒福寿延命地蔵とよばれる小祠などがある。ここからさらに南、石川がもっとも街道に近づくあたりに㉓錦織一里塚がある。府指定史跡であり、宝篋印塔が二基あり跡地に保全されている。ここから東高野街道は市域を離れ、河内長野市に入り、西高野街道と合流し、高野山へとつづいてゆく。