近世における旅行のなかで、伊勢参宮とともにもっとも一般的に盛況であった旅行経路に、西国三十三カ所の観音巡礼があげられる。これはいうまでもなく、近畿地方を中心に点在する三十三カ所の札所と呼ばれる寺院(聖地)を巡回する巡礼であった。巡礼の経路の基本的なものとして、札所の一番の那智青岸渡寺から始まり、中辺路を利用して札所二番紀三井寺、札所三番粉川寺を巡って和泉山脈を越え、札所四番槙尾寺から降って、善正(ぜばた)・南面利(なめり)へ出て天野峠を越え、天野山金剛寺に出る。そこから高向に下り、上原・原を通過して向野から石川に沿い、東高野街道を利用して、富田林寺内町へ向かう。寺内町を出てから、喜志宮・喜志平・西浦などの諸村を経て、田畑の中を北進して古市古墳群の間を通過し、軽墓をすぎて葛井寺(札所五番)へ向かう経路であった。槙尾寺から葛井寺までのこの道筋は「巡礼街道」とよばれている。西国三十三カ所観音巡りにはよく利用された基本的経路であり、近世の巡礼案内記などにも述べられている(田中智彦「大坂廻りと東国の巡礼者―西国巡礼路の復元―」(『歴史地理学』一四二))。
市域を通過する巡礼街道と、沿道の道標など石造記念物などにつきふれてみよう。富田林寺内町の本町に❶道標があり、「左ふぢゐ寺」「右まきのう寺」と読める。もう一つ❷地蔵祠があり、道標も兼ねているとみられ、地蔵尊の下部に「左ふぢ[ ]」「歓山浄[ ]」と地名らしい字が刻まれている。寺内町の北の入口に❸三十三度行者講供養塔が小祠の内に入れられ建てられている。銘文は「安永三年三月四日」「願主但州日<ママ>泉郡福定村玄教」「供養施主新堂村酒屋忠兵衛」とある。三十三度行者というのは西国三十三カ所の霊場を三十三度巡礼する行者のことで、中世における聖の系譜をひくとされている。市域を含む河・泉・紀州の地方では、最近まで姿をみせた「サンドさん」「オセタさん」とよばれる巡礼僧のことで、木製のセタ(巻頭図版参照)という笈(おい)を背負い、その中にミニチュアーの西国三十三カ所の観音を安置している。この場合は願主が但馬の農村の者で、供養施主が地元の新堂村の者であった。巡礼街道への出口におかれていることが興味深い。ママ>
巡礼街道はこれから灌漑水路に沿い、田畑の中を一直線に北進する。喜志宮村に入ると集落の南寄りに、民家があるために街道が鍵形に屈曲する地点がある。ここに三つの道標があり、東側曲がり角にある❹標柱には「左ふじゐ寺」と刻まれ、西側曲がり角に立つ❺標柱には「右ふぢゐ寺」と刻まれているのが読める。❺の傍らに根元から折れてしまった❻道標があるが、これには「左まきのを」「右ふぢゐ寺」と刻まれている。道はさらに北へ続くが、やがて直線路からはずれるように丘陵側の田の方へ続いてゆく道がある。残念ながら、この道が、元の巡礼街道なのかは、現在のところ確定できないが、この道を進むと喜志平村集落へ、かなり自然な形で向かうことができるので、とりあえずこの道を巡礼街道と推定しておきたい。この集落には❼地蔵小祠も存在しているが、集落の北のはずれ近く、羽曳野市との境にもっとも近い付近にある民家の脇に❽板碑様の道標がある。この先は、あぜ道となって、やがて羽曳野市の方へ続いてはいるが、よもやこのあぜ道が街道にはとうてい見えず、この道標に「すぐ葛井寺一里」と書かれていることによって、ようやく巡礼街道であることがわかる。札所をさし示す道標の存在は、その往来が巡礼街道であることを、おのずから明らかにしているのである。こうして巡礼街道は西坂田(尺土)村(現羽曳野市)に入り、当地に存在する破損した❾地蔵尊には「すぐふ□□寺廿五丁」と刻まれ、五番札所葛(藤)井寺につながってゆく。